2025年2月23日日曜日

エクソダス

 エクソダス

The Atrocity Exhibition - Exhibit A Exodus 2007 music



きっかけ

残虐行為展覧会 Atrocity Exhibition  2016  ダニー・ブラウンを検索してmusicで発見


ウィキペディアより

エクソダス(EXODUS)は、アメリカ合衆国出身のスラッシュメタル・バンド。


 サンフランシスコ産スラッシュメタル『ベイエリア・スラッシュ』を代表するバンドの一つ。同分野の草創期から活動し、業界からも高い評価を得ていたが一度解散。2000年代初頭に活動を再開した。

概要

 スラッシュメタル黎明期より活動を始め、「メタリカ」「メガデス」「アンスラックス」「スレイヤー」などと共に、同ジャンルの確立に大きく寄与した。エクソダスの特徴的なザクザクとしたソリッドな独特のリフのカッティングはベイエリア・クランチと呼ばれ、世界中のスラッシュメタルバンドはもとより、デスメタルバンド達にも大きな影響を与えた。しかし「メタリカ」「メガデス」達が商業的に成功する中、所属レコード会社とのトラブルなどの不運が重なったこともあり、商業的に成功には縁が無かった。

 また、米西海岸で一緒に活動していた「テスタメント」「フォビドゥン」といったスラッシュメタル勢はいずれもベイエリア・クランチを特徴としていたこともあって、他の地域のスラッシュメタルとの差別化を図る意味でベイエリア・スラッシュと呼ばれている。

「メタリカ」のカーク・ハメットが在籍していた事でも知られる。

オリジナル・アルバム

1985年 Bonded by Blood music

1987年 Pleasures of the Flesh music

1989年 Fabulous Disaster music

1990年 Impact is Imminent music

1992年 Force of Habit music

2004年 Tempo of the Damned music

2005年 Shovel Headed Kill Machine music

2007年 The Atrocity Exhibition... Exhibit A music

2008年 Let There Be Blood music

2010年 Exhibit B: The Human Condition music

2014年 Blood In, Blood Out music

2021年 Persona Non Grata music

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ウィキペディアより

 スラッシュメタル (Thrash Metal) は、音楽のジャンルの一つ。従来のヘヴィメタルにハードコアの過激さを加えた音楽形態を指す。Thrash とは「鞭打つ」という意味である。スピードメタルとの定義の境界線は曖昧である。

概要

 このジャンルは、NWOBHMのダブルベース・ドラミング・複雑なギターワークと、ハードコア・パンクの攻撃性の融合により1980年代初頭に登場した。凶暴で粗野な印象が強調され、スピード感を重視した楽曲が多い。特に1980年代初頭には、メタリカの「Fight Fire With Fire」(『Ride the Lightning』収録曲)や、スレイヤーの「Chemical Warfare」(EP「Haunting the Chapel」収録曲)が、メタルでは最速の楽曲として話題に上ることもあった。


・Ride The Lightning 1984 Metallica music 

  Fight Fire With Fire




・Slayer - Chemical Warfare YouTube


 参考 2曲目 Luciferion Chemical Warfare 

 アルバム Slatanic Slaughter, Vol. 2 music



スラッシュメタルは速弾きこそあれど、楽曲の中心はリフであり、高速なもの、複雑なもの等、様々なギターリフを創造した。速さのみを追求していたわけではなく、スピード感を際立たせるため、1曲の中、あるいはアルバムを通して緩急をつけるなどの工夫もされていた。ヴォーカルは、音程をあまり重視しない、叫び声やハードコア風のがなり声のようなスタイルが多い。 ドラムも、いわゆる「スラッシュビート」(BPM200以上でバスドラムを16分で打ったり、バスドラムとスネアを高速の8分で交互に叩いたり等)が特徴。スレイヤーのデイブ・ロンバードやアンスラックス、ダーク・エンジェルやテスタメント、デスのジーン・ホグラン等がいる。


2025年2月19日水曜日

ロッド・スチュワート

 ロッド・スチュワート

music ウィキペディア

きっかけ

 musicでThe Nearness of Youを聴いて


It Had To be You... The Great American Songbook 2002 music




Camouflage 1984 music 


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サー・ロデリック・デイヴィッド・“ロッド”・スチュワート(Sir Roderick David "Rod" Stewart、1945年1月10日 - )は、スコットランド家系のイギリスのポップ・ロック・ミュージシャン、ヴォーカリストである。

21世紀には『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズを発表し、スタンダード・ナンバーのカバー曲に取り組むシンガーとしても活動している。2013年以降はソングライティングを再開し、オリジナルアルバムも発表している。2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることになった。大英帝国第3級勲位(CBE)が既に授与されており、音楽界への長年に渡る貢献が評価された。レコード、CDの全世界におけるトータル・セールス枚数は(シングル込みで)2億5000万枚以上。全米No.1アルバム4作、トップ10アルバムは17作。全英No.1アルバム10作、トップ10アルバムは33作の記録を持つ。


 墓掘り人夫などの日雇い仕事を転々とした後、彼はサッカー選手として西ロンドンを本拠とするブレントフォードFCに参加したが、わずか3週間ほどでクラブから退団。1960年代前半に放浪の罪で追放されたスペインのフォーク歌手のウィズ・ジョーンズのツアーに加わり、音楽の経歴が始まった。イギリスに帰国すると、バーミンガムでジミー・パウエル・アンド・ザ・ファイブ・ディメンションズにボーカリスト、ブルースハープ奏者として加入した。バンドはパイ・レコードと契約した。彼はまた、1964年の大ヒット、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ローリーポップ」のレコーディングにも参加した。

・マイ・ボーイ・ローリーポップ


 1964年にロンドンに戻ると、ロング・ジョン・ボルドリーの率いるフーチ・クーチー・メンに加入した。バンドはシングル「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を発表したが、チャートインはしなかった。フーチ・クーチー・メンは、ロッドとボルドリー、ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガーらがメンバーで、のちにスティームパケットに発展した。スティームパケットは、1965年夏のローリング・ストーンズとウォーカー・ブラザーズのツアーをサポートし、アルバムを録音し数曲にボーカリスト及びコーラスとして参加するが、ロッドが1970年代に成功するまで発表されなかった。モッド・ムーブメントの後に「ロッド・ザ・モッド」の愛称を得た。

スティームパケットは1966年前半に解散し、ロッドはベリル・マースデンの率いるショットガン・エクスプレスに参加した。ショットガン・エクスプレスは、後にフリートウッド・マックを結成したミック・フリートウッドとピーター・グリーン、またピーター・バーデンス(元ゼム、後にキャメル)が参加していた。ショットガン・エクスプレスは解散直前に1枚のシングルを発表している。


ジェフ・ベック・グループ

ショットガン・エクスプレスの解散後、ジェフ・ベック率いるジェフ・ベック・グループに参加する。1968年に最初のアルバム『トゥルース』が英米でヒットし、大規模なツアーが行われた。セカンド・アルバム『ベック・オラ』もヒットしたが、バンドは1969年末に解散した。ベックはロッドの参加でティム・ボガート、カーマイン・アピスらと新バンド結成を計画したが、ロッドは参加しなかった。


フェイセズ

アメリカのバンド、カクタスがロッドをリード・ボーカルとして誘ったが、彼はジェフ・ベック・グループのベーシスト、ロン・ウッドに誘われてスティーヴ・マリオットの脱退したスモール・フェイセスへ参加することを決めた。同バンドは、2人の加入と共にバンド名をフェイセズ[5]に変更した[6]。フェイセズはアルコールにめっぽう強く、酔いどれバンドとしても知られた。また、ソロ・アルバムの契約にサインし、ソロ歌手としてマーキュリー・レコードと、そしてフェイセズとしてワーナー・ブラザースと2つのレコード会社を掛け持つこととなる。1969年に発表された最初のソロ・アルバム『ロッド・スチュワート・アルバム』は、リリース当時は目立ったヒットとならなかったが、1972年にはアメリカのBillboard 200で139位を記録した[7]。

フェイセズのデビュー・アルバム『ファースト・ステップ』[注 1]は1970年前半に発表され、その音楽スタイルはローリング・ストーンズに似通っていた。アルバムは、アメリカよりもイギリスでヒットし、バンドはライブでの評判が高まった。


2ndソロ・アルバム『ガソリン・アレイ』をギタリスト、マーティン・クイッテントンと共に発表。この頃はロッドのソロアルバムもフェイセズは惜しみなくレコーディングに協力していた。3rdソロ・アルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が英米チャート共に同時1位という、史上5度目となる快挙を成し遂げる。また、シングル・カットされた「リーズン・トゥ・ビリーヴ/マギー・メイ」も大ヒット(全英1位/Billboard Hot 100で全米1位[8])を記録する。「マギー・メイ」は当初シングルB面扱いだったが、同曲を気に入ったラジオDJ達が後にA面扱いで紹介した(プレス上はB面のままである)。


1972年11月には、ロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団(英語版)によるロック・オペラ『トミー』のアルバム制作とコンサート[注 2]に客演して、「ピンボールの魔術師」を独唱した[注 3][9]。同曲は1973年に発表された初のベスト・アルバム『シング・イット・アゲイン・ロッド』にも収録された。


フェイセズとしても3枚目のアルバム『馬の耳に念仏』がヒットし、「ステイ・ウィズ・ミー」が代表曲として知られるが、ロッドのソロ活動が成功するうち、バンド内に亀裂が生じることとなる。 4thアルバム『ウー・ラ・ラ』ではレコーディングに参加しない楽曲まであり、フェイセズも当時のレコード会社の方針でロッドのバック・バンドのような扱いになってしまう。また、『ウー・ラ・ラ』をロッドが「完全な失敗作」などと批判する記事が掲載されたり、ソロ歌手として全米進出を目論んでいた矢先、レコード会社移籍問題で裁判になるといったトラブルも報じられた。これらが要因となり、1973年5月、リーダー格ロニー・レーンが脱退。同年7月には、日本人ベーシスト、山内テツが加入する。


その後もツアーは行われ、1974年2月には大阪と東京で全4公演の来日公演も組まれた(大阪2日目はキャンセル)。しかし、ライブ・アルバムの発表を機に“ロッド・スチュワート&フェイセズ”とロッドが主体となるようクレジットが変更されたこと、フェイセズのツアーにもかかわらず、セットリストの多くはロッドのソロ名義の曲となり、関係の修復は困難となった。後にロッドは「ロニー・レーンはストーンズにおいてのキースの様な存在だった。彼の脱退と同時にフェイセズの魂は無くなってしまった」と語った。


1975年にはロン・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、ツアーも敢行されたが、この年にバンドは解散した。


ソロ時代

グループ時代から並行してソロ活動を続けた。1970年まではロッドの知名度は英国内にとどまっていた。しかし、1971年のトラッド・フォークを取り入れた「マギー・メイ」は全米1位の大ヒットとなり、ロッドの知名度はワールドワイドになった。翌年、「ユー・ウェア・イット・ウェル」もヒットしている。フェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。このころから「ロック芸能人」的な見方をされるようになった。同アルバムはスティーヴ・クロッパーやジェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが参加した作品で、シングル「セイリング」が英国でヒット(全英1位)。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなった。


『明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動した。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」が1979年にヒットしたこともあり、全米で4週連続1位に輝いた。だが、この「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」(1976年)に非常によく似ていたため、盗作疑惑が持ち上がり裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットとなった。1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が合計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到した。


ブルースロックやトラッド・フォークの路線から、渡米後は楽曲が産業ロック的になり、ロッド本人の女性スキャンダルや派手な生活も相まって、音楽ジャーナリストやロック・ファン、パンク・ロック勢から批判を浴びた。また1980年代には、当時アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカの「サン・シティ」で公演をするミュージシャンとして、ロッド・スチャートやクイーンらは、厳しい批判を受けた。なお、人種差別に反対するアーティストたちは1980年代半ばに、「サン・シティ」というアルバムを発表している。

1980年代は打ち込みサウンドが全盛の中、作品内でも取り入れるが、音楽ファンからはスタジアム・ロック的との見方をされ勢いを失った。1984年には、パースエイダーズのR&B曲をカバーした「サム・ガイズ・ハブ・オール・ザ・ラック」がヒットした。アルバム制作はやや緩やかになるものの、精力的なワールド・ツアーを敢行。また、旧友ジェフ・ベックの『フラッシュ』(1985年)にゲスト参加。ここで歌われた「ピープル・ゲット・レディ」(インプレッションズのカヴァー)は、その後もロッドの持ち歌となった。1981年と1984年に日本公演を果たしている。


1989年、トム・ウェイツのカバー「ダウンタウン・トレイン」が久々のヒット。「アイム・セクシー」以来11年ぶりに、全米・全英両方のチャートでトップ10入りしたシングルとなった。1991年には「モータウン・ソング」「リズム・オブ・マイ・ハート」と立て続けに全米・全英でトップ10を記録し、翌1992年には、再びトム・ウェイツのカバー「トム・トラバーツ・ブルース」を全英トップ10に送り込む。


1991年3月からは、ヨーロッパから全米まで1年間に渡る『ヴァガボンド・ハート・ツアー』を敢行。ヨーロッパでは、60公演以上のチケットが完売、アメリカでも動員・売上記録25週連続1位を記録する過去最大規模となった。一方、1992年には8年振りの来日公演が予定に組み込まれていたが、当時の妻であるレイチェル・ハンターが出産を間近に控えていた為、残りの日程をキャンセル。ツアーは打ち切りとなった。


1993年2月、フェイセズ時代の盟友ロン・ウッドと共にMTVアンプラグドに出演。その時の演奏は、同年にはライブ・アルバム『アンプラグド』としてリリースされた(2009年にはボーナス・トラックを2曲追加、初映像化となるDVD付きのデラックス・エディションとして再発)。全英・全米で2位、日本では7位。特に全米では5週連続浮上し、セールスは300万枚を突破。一方で、全曲カヴァー曲で構成されたアルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』が制作途中でお蔵入りとなった。(2010年にECサイト限定で商品化)同年には、ブライアン・アダムス、スティングと共にレコーディングした映画『三銃士』の主題歌「オール・フォー・ラヴ」が全米で3週連続1位を記録。


1994年、これまでの功績が評価されロックの殿堂入りを果たすが、授賞式の2日前にノースリッジ地震が起こり、ロッドの幼い子供達が怯えていたことから「子供達を置いていけない」という理由で授賞式を欠席した[10]。MTV「アンプラグド」の成功もあり、本来ワールドツアーは終了していたものの、1994年4月には10年振りの日本公演を敢行。海外アーティストの来日公演では異例のオーケストラは全て日本人という編成で、アンプラグドスタイルでのライブを行っている。同年12月31日、リオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ・ビーチで開催されたフリー・コンサートでは、350万人[11]とも420万人[12]ともいわれる観客の前で歌い、ギネス世界記録に認定される[12]1995年にはフジテレビ系列のドラマ『沙粧妙子-最後の事件-』の主題歌に「レディ・ラック」が起用されシングル、アルバム共にヒット。再注目を集める事となり翌1996年に再来日。プロモーションとして『ニュースステーション』に出演し、同い年の久米宏とトークを繰り広げた。


2000年には甲状腺癌が判明、9か月間に渡って歌えなかったという衝撃が駆け巡ったが、アルバム『ヒューマン』のプロモーションに乗せてしまうほどで、周囲の不安を一掃した。ただ、喉の手術を機にこれまでの高音は出せなくなった為、以後、喉に負担を掛けない歌唱法に変更した。本作は70年代から所属してきたワーナー・ブラザースを離れ、同レーベルの傘下であるアトランティック・レーベル移籍第1弾アルバムである。


コンスタントにヒット・シングルを放つものの、キャリア前期に多く見られた代表作を生むには至らず、特にアメリカでは商業的に苦戦を強いられていた。ライターズ・ブロックに陥り、1990年代には楽曲のストックがほとんどなく、いくつかのオリジナル曲とカヴァー曲で構成されたアルバムを発表していた。


2002年、アトランティック・レーベルを離れ、クライヴ・デイヴィスが設立したJ RECORDSに移籍し、新境地の開拓を図る。2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカヴァーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ4作が全米だけで830万枚の大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。2004年の『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』は、自身25年振りとなる全米1位を達成し[13]、第47回グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞して通算13度目のノミネートで待望の初受賞となり[14]、復活を果たした。


当初、このシリーズは3部作で完結と言われていたが、このVol.3の大ヒットもあり、最終的にVol.5まで発表した。2006年にはロック回帰を宣言したカヴァー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。 2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。


2008年にはカヴァーシリーズの続編となるソウル・アルバムの制作が進行していたが、これまで二人三脚で歩んでいたクライヴ・デイヴィスがクリスマス・アルバムの制作を提案。これをロッド側が固辞し、ニュー・アルバムの制作が見送りとなった。その代わりに、ベスト・アルバム『スーパースター・ストーリー~ザ・ベスト・オブ・ロッド・スチュワート~ (Some Guys Have All The Luck)』に切り替わったという経緯がある。


2009年3月、13年振りとなる来日公演が実現。4公演とこれまでで最も少ない公演数ではあったが、日本武道館の初日公演が完売となり、各地で盛り上がりを見せた。また、3月14日のさいたまスーパーアリーナ公演の前には、Jリーグ浦和レッドダイヤモンズからのオファーを受け埼玉スタジアム2002を訪れた。Jリーグが開幕した1993年からレッズのオフィシャルサポーターズソングとして使用されている「We are Diamonds」の原曲が「セイリング」である縁で招待された。ライブ本番前であった事からスタジアムでの歌唱などは見送られたが、サポーターに向けて映像でメッセージを送った。来日記念盤として代表作のCDがマーキュリー、ワーナー、BMGの3社から紙ジャケット仕様でリイシューされた。


2009年4月21日、ロサンゼルスで行われたジェフ・ベックのライブに飛び入りで登場し、「ピープル・ゲット・レディ」「迷信嫌い」を披露。2009年秋、前年に見送りとなったソウル・アルバムが『ソウルブック』としてようやく発表になった(日本版は12月発売)。また、マーキュリー/ワーナー期の楽曲の別テイクや、レコーディングされながら未発表だった秘蔵音源が多数発掘された。音源の一部はすでにBOXセット『ロッド・スチュワート セッションズ 1971-1998』としてリリースされており、CDで発表されなかったアウトテイクは各アルバムのボーナストラックとしてインターネット配信された。2010年は、イギリスを中心とした春から夏にかけてのワールド・ツアーを敢行。一部でフェイセズのリユニオンが取り上げられたが、『ソウルブック』のプロモーションとコンサート活動に専念するため、ロッドの参加は見送られた。また、『グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの完結を公式に宣言。その最終章となるVol.5を発表した。


2011年からはスティーヴィー・ニックスとのジョイント・ライブや、ラスベガスを中心としたコンサート活動を行う。2012年6月、ユニバーサルミュージック内のヴァ―ヴ・レコードと多数のアルバム・リリースを含めた契約を交わす。同年秋には、自伝を海外で出版(翌2013年、日本でも発売)。また、キャリア初のクリスマス・アルバム『メリー・クリスマス、ベイビー』を発表。製作総指揮をデイヴィッド・フォスターが務め、全米で初登場3位を記録。全英では初登場2位を記録した。本作と同時進行で、ロック・アルバムを制作中であることがアナウンスされ、アルバムには新曲がダウンロードできるミュージック・カードが封入された。


2013年春には、自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である[15]。


2015年、前作『タイム〜時の旅人〜』に続く、自作曲を中心としたアルバム『アナザー・カントリー』を発表。ほとんどの楽曲は自宅でレコーディングされた。


2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることが発表された。


2018年、『ブラッド・レッド・ローゼズ』を発表。全英では自身5年振りとなる初登場1位を記録。一方、アメリカでは定期的なライブを除き大規模なプロモーションは行われず、スタジオ・アルバムとしては1970年代以降では最も低いチャート・アクションとなった。


2019年9月27日、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行われた公演のアンコールで、ジェフ・ベックと10年振りに共演、5曲を披露した。一夜限りのパフォーマンスになる事が春からアナウンスされていた。 11月には数々のヒット曲をロイヤル・フィル・ハーモニー管弦楽団によるリアレンジ、新録のナンバーも収録した『ロッド・スチュワート・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』を発表。本作は全英で初登場3位、2週目も2位とスマッシュヒットを記録したもののトップの座を獲得するには至らず、「ソロで50周年を祝うより、イギリスで10枚目のナンバー1を祝う方がずっといい」と、ファンに向けて異例のメッセージを送った。翌週から3週続けて1位を獲得し、自身の持つ最年長記録を更新。また、ソロ50年のキャリアで初の全米クラシック・アルバム・チャート1位を記録した。


2020年2月18日、英国で開催された「Brit Awards 2020」で、ロン・ウッド、ケニー・ジョーンズと「ステイ・ウィズ・ミー」をオーケストラを従えプレイした。フェイセズが1970年3月にデビューアルバムを発表してから丸50年のアニバーサリーを飾る共演となった。









☆弘田三枝子 和製R&B娘

弘田三枝子

きっかけ

 大野雄二のウィキペディアを見て


ウィキペディアより


 弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子〈たけなが みえこ〉、1947年〈昭和22年〉2月5日 - 2020年〈令和2年〉7月21日[1])は、日本のポップス、歌謡歌手。愛称は「MICO(ミコ)」、「(パンチの)ミコちゃん」。


 歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された。後のミュージシャン(都はるみ、南沙織、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた。

経歴

 世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り、幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思でティーブ・釜萢の「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで歌っていたともいい、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた。曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習(本人曰く「小稽古」)の際、歌詞を理解してメロディーを体に入れてから(本人曰く「儀式」)、自ら考案した記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し歌をものにしたうえで収録に臨んだという。この儀式は、レコードデビューからラストシングル収録まで続けられたという。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。


 晩年まで、空き時間に最新曲をiPodで聴き漁るなどして、採り入れ、学ぶ姿勢を失わなかったという。自らの歌唱待ちの舞台袖で椅子をすすめられても勉強になるといって立ったまま他の歌手の唄に耳を傾ける姿や、自ら先輩に良くしてもらったことを理由にスタッフをはじめ後輩らにも謙虚な姿勢で接する姿は、多くの同業者・スタッフに好意的に受け止められていた。


ダイナマイト娘

 1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー(草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケーション」(コニー・フランシスのカバー)が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている。


 1964年10月に日本コロムビアへ移籍。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。

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☆ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う 1966 music

★1965年、日本人シンガーとして初のニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演し絶賛され、NYにてこの名盤をレコーディング。名曲「サニー」は弘田が世界初レコーディングした。

Side A

1 ライト・ヒア・ライト・ナウ 

2 サニー 

3 レイジィ・ラヴィン 

4 ランブリン・ローヴァー 

5 アイム・カミン・ホーム・ベイビー 

Side B

1 アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー 

2 ザ・メッセージ 

3 フライング・ホーム

弘田 三枝子(Vocal) 

ビリー・テイラー(Piano) 

ベン・タッカー(bass) 

グレディ・テート(drums)

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 2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。

カムバック

 弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコンチャート首位となり、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「ジャズ・ヴォーカル女性歌手」部門でトップに立ち(1970年まで5年連続。それまでのトップはマーサ三宅。)、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。

 海外での活動としては、1973年、第11回チリ・ポピュラー音楽フェスティバルで5位に輝き、同年に第13回ブルガリア音楽祭(en:Golden Orpheus)にゲストとして招待され、50分ほどのワンマン・ショーを披露した。

ダイエット本出版

カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが[3]、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した[15]。この本はベストセラーとなり「芸能人のダイエット本の先駆け」[16]、「タレントダイエット本の元祖」と評され、150万部を超えたともいわれる[17]。同年のベストドレッサー賞を受賞した。この後、イヴ・サン=ローランとタイアップしていき、ファッションリーダーとしても活躍していくこととなった。

 後の2019年11月28日にNHKで放送された「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」の「ストレスの原因?単位のお名前」の回において、「カロリー」という言葉を日本に普及させた人物として紹介された。

渡米

その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した。


1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する。


平成以降

 2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売[24]。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「駅」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。


 2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。

 2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった。最後のテレビ出演は、2019年11月12日に開催された第46回日本歌手協会歌謡祭夜の部で歌われた「夢みるシャンソン人形」で、翌2020年1月2日に「日本歌手協会新春12時間歌謡祭【第4部】」内で放送された。また、最後のライブは2019年12月8日に名古屋市の星神社で催された御本殿竣功奉告祭になった。

 2020年11月20日、第62回日本レコード大賞特別功労賞受賞。

アルバム

1962 ヒット・キット・パレード

1962 ヒット・キット・パレード 第2集

1963 スタンダードを唄う

1963 ヒット・キット・パレード 第3集

1963 日本民謡を唄う

1965 ヒット・キット・ミコ 第1集

1965 ヒット・キット・ミコ 第2集


1966 ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う 

1967 ミコ・ミュージカルを唄う 

1971 Rock Rock ロックの歴史を歌う

1971 ミコより愛をこめて From Miko With Love

1972 弘田三枝子の世界 

1972 愛の歌~弘田三枝子オリジナル・アルバム

1973 JAZZ TIME~弘田三枝子ベスト・ジャズ・アルバム 

1974 The Nearness of You〜弘田三枝子 イージー・リスニング・ジャズ 

1974 Good Old Days Forever 

1974 イエスタデイ・ワンス・モア 

1975 愛のめぐり逢い Then Came You

1975 私の好きな唄~帰り来ぬ青春 

1976 My Funny Valentine 

1977 IN MY FEELING

1978 Step Across 

1980 MIEKO HIROTA 76/45

1983 TOUCH OF BREEZE  

1998 華麗度 ~ MICO is Kaleidoscope 

1999 東京27時 

2008 マイ・タペストリー 

2005 弘田三枝子 MICO TODAY 

2008 McIntosh Reference Vocal Sound Jazzing-Mico

2018 Isn't It Romantic? 

ライブアルバム

1966 ミコ・イン・コンサート 

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1968 ミコR&Bを歌う/弘田三枝子オン・ステージ 

 ・コロムビア昭和歌謡アーカイブズ ミコR&Bを歌う music

A1 Twinkie Lee Written-By – J. F. Bright*

A2 I Can't Stop Loving You Written-By – D. Gibson*

A3 Sunny Written-By – B. Hebb*

A4 Massachusetts Written-By – B. Gibb, M. Gibb, R. Gibb*

A5 A Hard Day's Night Written-By – J. Lennon, P. McCartney*

B1 Lady Madonna Written-By – J. Lennon, P. McCartney*

B2 By The Time I get To Phoenix Written-By – J. Webb*

B3 If You Can Want Written-By – Robinson*

B4 Respect Written-By – O. Redding, Jr.*

B5 What'd I Say Written-By – R. Charles*

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1969 ミコR&Bを歌う 第2集 

・コロムビア昭和歌謡アーカイブズ ミコR&Bを歌う(第2集) music 

1 ノック・オン・ウッド

2 シッティング・オン・ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ

3 愛する貴方を失くして

4 ラヴ・チャイルド

5 やさしき伴侶を

6 カミン・ホーム・ベイビー

7 チェイン・オブ・フールス

8 コットン・フィールズ

9 オー・ハッピィ・デイ

10 ブラック・イズ・ブラック

11 ホールド・オン

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1972 MIKO LIVE 

1973 MIKO LIVE at RIVERA~ミコ・ライブ'73 

1973 Recital At The Festival "The Golden Orpheus '73" (Live From Bulgaria) 

1976 MIEKO IN PERSON~弘田三枝子リサイタル 

1998 ミコ・ジャズ・ライブ・イン・北九州 

2004 弘田三枝子・LIVEこれくしょん 

ベストアルバム

1970 Miko 70 ポピュラー・ビッグ・ヒッツ 

1975 ベスト・ジャズ・アルバム 

2006 弘田三枝子・じゃずこれくしょん 

2013 弘田三枝子・せれくしょん 〜ジャズ・ヒッツ 

2013 弘田三枝子・せれくしょん~ポピュラー・ヒッツ



・ドーベルマン刑事のテーマ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事)ソウルミュージックをベースにしつつも、タイトルのイメージを崩さないようにするため、詞をできる限り少なくし、スキャットでまとめたという YouTube

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・弘田三枝子 洋楽カバー YouTube

・Mieko Hirota - Ah! Soul...Introducing Miko On Stage(Live)(Full Reel) YouTube

記事  

MIKO / 弘田三枝子 MIEKO HIROTA / ロックの歴史を歌う ROCK ROCK (2LP)

 MICO(ミコ)の愛称で当時は「ポップスの女王」とも謳われた和モノ・ファンには避けて通れない女性シンガー「弘田三枝子」の'71アルバム。ロック古典からビートルズ、R&Bまで海外の名曲を取り上げた「ロックの歴史を歌う」と題したカバー・アルバム。ジャズピアニスト「佐藤允彦」、弘田三枝子、笠井紀美子作品も手掛けるジャズ・ピアニスト~作曲家のコルゲンこと「鈴木宏昌」、日本のジャズ・シーンを牽引した名ピアニスト「菊地雅章」、作曲、アレンジャーとして数多くの作品を残したジャズ・ピアニスト「前田憲男」等、和ジャズ界の重鎮達がアレンジを施した見逃せない一枚!!!演奏はコロムビア・オールスターズ。ソウル定番OTIS REDDING"RESPECT"のグルーヴィーなソウル・カバーのA6、アレサ・フランクリンの"チェイン・オブ・フールズ"、疾走感溢れるグルーヴの"ブラック・イズ・ブラック"、エディー・フロイド"ノック・オン・ウッド"、サム&デイヴ"ホールド・オン"等黒い歌唱とグルーヴィーな演奏が光るソウル古典ナンバーが注目ですが、それ以外もビートルズの"ハード・ディズ・ナイト"他全4曲のビートルズ・ナンバー、ベン・タッカー作、ハービー・マンの演奏でヒットしたナンバー"カミン・ホーム・ベイビー"をド渋にジャジーに取り上げたC4、BLOOD SWEAT & TEARS"スピニング・ホイール"等全編素晴らしい内容!!本当は全部試聴させたい位の内容です。今回帯なしでの入荷でプライシング下げてますが帯付はレアです!!

TRACK LIST

A1,ロック・アンド・ロール・ミュージック

A2,ハード・ディズ・ナイト

A3,愛さずにはいられない

A4,ペイパーバック・ライター

A5,マサチューセッツ

A6,リスペクト

B1,ホワット・アイ・セイ

B2,シッティング・オン・ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ

B3,チェイン・オブ・フールズ

B4,ブラック・イズ・ブラック

B5,ラブ・チャイルド

B6,ノック・オン・ウッド

C1,ホールド・オン

C2,ホンキー・トンク・ウイメン

C3,愛する貴方を失くして

C4,カミン・ホーム・ベイビー

C5,ジョンとヨーコのバラード

C6,オー・ハッピイ・デイ

D1,アクエリアス (輝く星座)

D2,ゲット・バック

D3,カム・トゥゲザー

D4,スピニング・ホイール

D5,レット・イット・ビー

D6,ユーヴ・メイド・ミー・ソー・ベリー・ハッピー

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大野 雄二

 大野雄二

大野雄二とは?

テレビのルパン三世のジャズが好きです。代表的なアルバムを教えてください。

🎹 大野雄二とは?


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日本を代表するジャズ・ピアニスト/作曲家で、特に
👉 ルパン三世の音楽で世界的に有名です。

■ 基本プロフィール(GP式・構造)

  • 分野:ジャズ/映画・アニメ音楽

  • 特徴:

    • スウィング感のあるハードバップ系ジャズ

    • ビッグバンド+コンボの融合

    • 「クール × スリリング × 色気」

■ 代表作

  • 「ルパン三世のテーマ」

  • 「ラブ・スコール」

  • 「サンバ・テンペラード」

👉 つまり
**“日本で一番カッコいいジャズをアニメに持ち込んだ人”**です。


🎷 ルパン好きなら必聴アルバム(厳選)


ルパン三世 EPISODE0 ファーストコンタクト オリジナル・サウンドトラック


① LUPIN THE THIRD ORIGINAL SOUNDTRACK 1(1978)

 YouTube ※音がちょっと・・・

Tracklist: 1. Theme From Lupin III [0:00] 2. Silhouette [3:48] 3. I Miss You Babe (,Yes, I Do) [8:09] 4. Red Roses For The Killer [12:37] 5. Goodnight Moon-Shadow [17:19] 6. Dangerous Zone [20:17] 7. Sunset Flight [24:28] 8. Magnum Dance [26:36] 9. Lonely For The Road [31:08] 10. Lovin' You (Lucky) [34:36] 11. Love Theme [37:52]

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ルパン三世 PART Ⅲ 音楽集 music ※このアルバムじゃない

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👉 原点にして完成形

  • 「ルパン三世のテーマ」収録

  • ジャズ × ファンク × ラテンが融合

  • TVシリーズの空気そのまま

▶おすすめ度:★★★★★(最初に聴くべき1枚)




② LUPIN THE THIRD ORIGINAL SOUNDTRACK 2(1978)

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👉 よりジャズ色が濃い

  • クールで都会的

  • インスト中心で**“夜ジャズ”感強め**

▶おすすめ度:★★★★☆


③ LUPIN THE THIRD ‘79(1979)

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👉 名曲の別アレンジ集

  • 「テーマ’79」など人気曲の進化版

  • ビッグバンド感が強い

▶おすすめ度:★★★★★(ルパンジャズの完成形)


④ LUPIN THE THIRD JAZZ(2001〜)

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👉 完全ジャズ化シリーズ

  • ピアノトリオ中心

  • アニメ感より純ジャズ寄り

▶おすすめ度:★★★★☆(ジャズ好き向け)


⑤ Yuji Ohno & Lupintic Six ライブ盤

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👉 現代版ルパンジャズ

  • ビッグバンド+女性ボーカル

  • ライブの熱量がすごい

▶おすすめ度:★★★★★(今の最高形)


🎧 GP式まとめ(構造理解)

① 原点
→ OST1・2

② 完成形
→ ’79

③ 純ジャズ化
→ LUPIN JAZZ

④ 現代進化
→ Lupintic Six


🎯 あなた向け最短ルート

ルパンのジャズが好きなら:

👉 ① OST1 → ③ ’79 → ⑤ ライブ盤

これで
“ルパンジャズの進化”を一気に体験できます。


必要なら
👉「曲単位ベスト20(超カッコいい順)」
👉「料理×ルパンジャズ(味覚トランス接続)」

も作れます。


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ウィキペディアより


 大野 雄二(おおの ゆうじ、英: Yuji Ohno、1941年〈昭和16年〉5月30日- )は、日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。静岡県熱海市出身[1]。『ルパン三世』シリーズの作曲家としても知られる。

日本テレビ音楽専属、フリーを経て、バップ専属で活動している。

演奏家・作曲家として

 静岡県熱海市にある旅館瑞雲荘大野屋(後のホテル大野屋)の創業家に生まれ、小学生の時からピアノを始める[1]。6年生の2学期までは地元の小学校に通い、その後は小田原にある小学校・中学校まで越境通学していた[3]。小田原市立第一中学校(現:小田原市立城山中学校)卒業後は慶應義塾高等学校に進学[3]。同級生だった明石勇(クラリネット担当、後にNHKアナウンサーとなる)らと「ジュニア・ライト・ミュージック」を結成[1]。同時期に、独学でジャズを学ぶ[1]。慶應義塾大学法学部法学部政治学科に入学後は、名門ビッグバンド「慶應義塾大学ライトミュージックソサエティ」に所属[1]。鈴木"コルゲン"宏昌、佐藤允彦らと共に「慶應のピアノ三羽烏」と呼ばれた。佐藤は『証言で綴る日本のジャズ史』の中で、慶應在学中に大野と遊びながら和音を作ったと証言している。大野は前田憲男に師事した。


 大学在学中、渋谷毅の推薦で藤家虹二クインテットに所属し、プロ・ピアニストとなる。その後白木秀雄(大野のアルバム・デビューは、東芝から発売された白木秀雄クインテットでのLP『HIDEO SHIRAKI MEETS YUZO KAYAMA』)のバックを経て、自らのバンド「大野雄二トリオ」を結成する。


 1970年代前半にピアニストを休業し、作曲家活動に専念。テレビドラマや映画の劇伴などを手がけ始める。1975年には、しばたはつみの「シンガー・レディ」を作曲した。アルバムでは11曲中8曲を作曲している。


 1976年、映画『犬神家の一族』の音楽を担当。なお、同作に主演した石坂浩二は慶應義塾高等学校・慶應義塾大学法学部の同級生であり、アルバム『音楽と幻想』をリリースしている。劇場公開時のパンフレットには、石坂が大野のレコーディングスタジオを訪ねた記事が掲載されている。


 多いときは、ルパン1シリーズで200曲も書いたという。楽器は使わず、朝起きたらすぐに鉛筆を握り、五線紙に向かう。新シリーズのたび、1日15時間を作曲や編曲に費やす生活を3カ月間続けた。


ルパン三世と映像音楽

 1977年にはテレビ版『ルパン三世』第二シリーズの音楽を担当。大野は、70年代前半の「ジャズロック」「クロスオーバー」を継承し、映画音楽や歌手のアルバムに反映させた。1977年の映画『人間の証明』ではジョー山中が歌った「人間の証明のテーマ」を担当する。1978年には『野性の証明』の主題歌、町田義人の「戦士の休息」を作曲した。


 松木恒秀(ギター)、長岡道夫(ベース、SHŌGUNのミッチー長岡)、数原晋(トランペット)、渡嘉敷祐一(ドラムス)、市原康(ドラムス)などと結成した「You & Explosion Band」はテレビ番組、松田優作に関わる作品が多い。テレビアニメでは『ルパン三世』『海底超特急マリンエクスプレス』など、テレビドラマでは『大追跡』『大激闘マッドポリス'80』など、松田優作主演の映画『最も危険な遊戯』に始まる「遊戯シリーズ」の劇伴、バックバンドとして参加した松田のアルバム『Uターン』、後述の『24時間テレビ』のサントラ(クレジットは「大野雄二とYou & Explosion Band」)などがある。また、『犬神家の一族』に始まる初期角川映画3作品、テレビアニメ『キャプテン・フューチャー』『ルパン三世 PARTIII』は、バンドのレギュラーメンバーが参加しているが、原盤権が日本テレビ音楽(後述)ではないためクレジットではバンド名が異なっている。2015年放送開始のテレビアニメ『ルパン三世 PART IV』では久しぶりに「You & Explosion Band」名義が使用され、市原康、渡嘉敷祐一、岡沢章(ベース)といった当時のメンバーが再集結した。


 「You & Explosion Bandバンド」は大野の所属事務所であった日本テレビ音楽がプロデュースした作品で便宜的に使用される名義で、『ルパン三世』の第二シリーズでサントラを発売する際、名義が必要になったため形式的に名付けられたのが起源である。このため、制作作品に合わせて大野がセクションごとにミュージシャンを選抜し、恒久的なメンバーはいない。オリジナルアルバムとしては『SPACE KID』(2007年にCD化)・『FULL COURSE』などをリリースしている。後年の『ルパン三世』TVスペシャルのサウンドトラック録音でも、数原晋、杉本喜代志(ギター)ら、1970年代当時のメンバーも多い。2005年には「You & Explosion Band」名義のアルバム『Made In Y.O.』が発売された。内容は大野のこれまでの曲の、全て再アレンジの上での新規録音で、大野はアルバム制作のためライブ活動を3ヶ月休止した。


 大野の音楽性の特徴は、演奏能力のあるミュージシャンを積極的に起用し、自身のキーボード演奏(主にフェンダー・ローズによるもの)に、リズムセクションにジャズ・ルーツらしいホーンセクション・ストリングセクションを加えたバンド編成で、複雑な調性や和音、リズムを導入した。


 劇伴のジャンルで名を馳せた大野だが、弘田三枝子・ソニア・ローザといった歌手のプロデュースも手がけ、成功を収めている。これらの作品は1990年代にレアグルーヴとして再評価された。

・・・・

 ソニア・ローザ(本名:Sonia Angelica De Carvalho Rosa、1949年 - )は、日本で活動する女性歌手。ブラジル・サンパウロ出身。日本でのボサノヴァ普及に貢献した[1]。クラブ・ラジオDJのDJ TAROは実子。

 サンパウロでナイトクラブ「イチバン」を経営していた小野リサの実父小野敏郎と知り合い、小野の推薦で大阪万博の招聘歌手として1969年に日本へ渡った。当時ボサノバはブラジルでは下火になっていたが日本では好まれていた。

 テレビ番組「ミュージック・フェア」に出演したことからサックスプレーヤー・渡辺貞夫クアルテットのレコーディングに招かれ、渡辺と全国ツアー公演に参加することになった。渡辺プロデュースで1970年に日本デビュー。ライブハウスで渡辺の演奏のもとで歌声を披露していた。渡辺が登場できない日にピアノを弾いていた大野雄二と意気投合。大野はTVテーマやCM音楽でソニアを数多く起用、アルバムも発表している。テレビ番組「イレブンPM」や大橋巨泉のラジオ番組、フジテレビ系「ナイト・ショー」にもレギュラー出演し、テレビドラマ「遥かな坂」のテーマ曲や日本歌謡曲も手掛けた。

全て大野雄二作曲。


男と女がいて(日本テレビ系『俺はご先祖さま』オープニングテーマ)

フェアリー・ナイト(よみうりテレビ(現・ytv)系『ルパン三世 PARTIII』エンディングテーマ)

愛のダ・カーポ(日本テレビ系『ルパン三世 愛のダ・カーポ〜FUJIKO'S Unlucky Days〜』挿入歌)

LOVE SQUALL(po do amor)(日本テレビ系『ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト』挿入歌)

NHK『銀河テレビ小説』オープニングテーマ

『鏡の中の女』(1981年)

『夏に逝く女』(1982年)


 1971年、新宿のミュージック・レストラン「グリーン・グリーン」のこけら落としショーに選ばれたのが縁で同店のオーナーと結婚したが、その後別の実業家と再婚。

 80年代後半以降、子育てに専念していたが、音楽性の再評価の高まりを受けて、2006年には実子・DJ TAROプロデュースでアルバム「DEPOIS DO NOSSO TEMPO」をリリースし、日本のミュージックシーンに復帰している。

フェラーリ・テスタロッサを愛車に、目黒の豪邸で夫と2人暮らし。


参考 記事 《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史 坂尾英矩=(24)=祖国では誰も知らない歌姫ソーニャ=日本ではボサノーヴァのパイオニア

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 また、電子音楽のレーベル「トランソニック」主宰の永田一直によるドラムンベース・プロジェクト「FANTASTIC EXPLOSION」は、1970 - 1980年代のテレビCMなどの音ネタと共に、大野やYou & Explosion Bandが手がけた作品の多くをサンプリングして使用し、1990年代後半に話題となった。『ルパン三世』のリミックスアルバム『PUNCH THE MONKEY!』では「非常線突破」のリミックスを(YOU & FANTASTIC EXPLOSION MIX)と題し手がけている。


『ルパン三世』を通じて山田康雄、小林清志、納谷悟朗らレギュラー出演者と交流があり、特に山田とは自宅兼スタジオ「STUDIO YOU」に招いて酒を酌み交わすほど親しい仲であった。1992年には、山田のCDアルバム制作で自宅スタジオを使い、劇中の台詞に「大野雄二」を呼ぶアドリブがある。1995年に山田が亡くなり、翌年のGWに公開された劇場映画第六作『ルパン三世 DEAD OR ALIVE』並びに毎年恒例となっているTVスペシャルの第八弾『ルパン三世 トワイライト☆ジェミニの秘密』の音楽担当は辞したが、翌1997年には復帰している。PlayStation 2専用ソフト『ルパン三世 ルパンには死を、銭形には恋を』では劇中やクリア特典にポリゴンモデルとしてカメオ出演している。


テレビ音楽では主に日本テレビとNHKでの仕事が多かった。『ルパン三世』の他には、NHK連続テレビ小説『マー姉ちゃん』『いちばん太鼓』、SFアニメ『キャプテン・フューチャー』、『おひかえあそばせ』にはじまる石立鉄男ドラマ、NHKの紀行番組『小さな旅』、特撮ヒーロー『星雲仮面マシンマン』、NHKテレビアニメ『学園戦記ムリョウ』、テレビドラマ『俺はご先祖さま』『外科医 有森冴子』、NHK報道番組『ニュースセンター9時』(2代目テーマソング)『海外ウィークリー』『サンデースポーツ』『NHKニュースTODAY』なども担当。フジテレビでは時代劇『戦国ロック はぐれ牙』、テレビアニメ『スペースコブラ』の主題歌(劇中音楽は羽田健太郎)を手がけた。映画音楽では『犬神家の一族』『人間の証明』『野性の証明』『黄金の犬』のほか、劇場版『義務と演技』、にっかつ映画『おさな妻』などがある。


毎年夏恒例の日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の第1回放送(1978年)では、ピンクレディーの曲を除き、テーマ曲「LOVE SAVES THE EARTH」からコーラス曲、手塚治虫のアニメに至るまで、音楽監督的な立場で参加。第2回以降も大野の音楽は使用され、第14回まで携わった。


イベントへの音楽提供としては1981年の「ポートピア'81」において神戸館の「神戸プラネタリウムシアター」の音楽を担当(アルバム『COSMOS』)や、ハウステンボスのエッシャー館の上映フィルムの音楽などがある。


大野雄二トリオ・Yuji Ohno & Lupintic Five〜Yuji Ohno & Lupintic Six

2000年代は作曲活動を極力抑え、井上陽介(ベース)、江藤良人(ドラムス)(ベースは2010年4月まで俵山昌之、ドラムスは2007年3月まで村田憲一郎)とともに「大野雄二トリオ」として、また、2006年にはトリオに加え、松島啓之(トランペット)、鈴木央紹(サックス)、和泉聡志(エレキギター)の3名を含む計6名で「Yuji Ohno & Lupintic Five」を結成し、全国でライブ活動を行っている(2015年末に一度解散)。 2016年には上記の松島・鈴木・和泉と、新たにドラムスに市原康とベースにミッチー長岡という大野の古くからの盟友2人、若手キーボーディストの宮川純をハモンドオルガンとして迎え、「Yuji Ohno & Lupintic Six」として活動を再開した。


2025年2月16日日曜日

松原みき

 松原みき

music


・【松原みき】スカイレストラン Miki Matsubara 'SKY RESTAURANT'(Music Video)

  YouTube

Miki Matsubara 松原みき YouTube 

ウィキペディアより

 松原 みき(まつばら みき、1959年〈昭和34年〉11月28日[3] - 2004年〈平成16年〉10月7日)は、日本の元女性歌手、元作詞家、元作曲家。大阪府岸和田市出身[4]、血液型はO型。テレビアニメ「Gu-Guガンモ」のオープニング・エンディングテーマ曲では「スージー・松原」名義で歌唱を担当した[5]。


1979年11月5日(月曜日)発売のデビュー曲「真夜中のドア〜Stay With Me」は、オリコン最高28位ながらも、オリコン調べ10万4千枚、キャニオンレコード発表30万枚のセールスを記録するヒットとなった。また、同曲は2020年頃から日本のみならず、海外でも広く聴かれるようになった(詳細は#リバイバルを参照)。

経歴

学生時代

 1959年11月28日(土曜日)に大阪府岸和田市で生まれ、堺市平岡町[注釈 1] で育ち、幼少期を過ごす。母親がクレージーキャッツと共演したジャズ歌手であることから、3歳からピアノを習いジャズに親しんだ。


 1972年に堺市立平岡小学校からプール学院中学校へ入学し、ロックに興味を抱いてロックバンド「愚麗」で演奏する。1975年にプール学院高等学校へ進学し、「吉野家バンド」でキーボードを担当して京都市のライブハウス磔磔で活動する。


 1977年高校3年生のときに、歌手デビューのため単身で上京して文化女子大学附属杉並高等学校に転入する。米軍キャンプなど各地で演奏し、六本木のジャズスポット「バードランド」で飛び入り演奏して世良譲に絶賛される。アルバイトで疲労して視力の急激な悪化を招き、卒業試験に口頭試問で挑んで合格する。のちに手術で視力を回復した。


デビュー

 1979年11月5日(月曜日)に1枚目のシングル盤「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューすると複数の新人賞を受賞した。以降1991年1月21日までにカップリング曲を含む17枚のシングル盤とベスト・アルバムを含む15枚のアルバムを発表し、全国各地で演奏して歌唱した。

作曲活動

 1990年代以降は歌手の活動を休止し、松原のバックバンドでドラマーを務めた本城真樹と結婚。作曲家として主にコマーシャルやアニメなどの楽曲で活動し、1997年にNHK「みんなのうた」で放送された國府田マリ子の「雨のちスペシャル」は、話題を集めて2004年まで繰り返し再放送された。

・雨のちスペシャル 國府田マリ子 YouTube

 2001年にがんを告知され、全ての音楽活動を休止して闘病するも、2004年10月7日に子宮頸癌のため44歳で死去した。


リバイバル

 松原の死から10数年後、海外において日本のシティ・ポップ人気が高まる中で、2020年10月末にYouTuberのRainychがカバー曲を発表したことをきっかけとして、同年12月、「真夜中のドア~Stay With Me」がSpotifyグローバルバイラルチャート18日連続世界1位を記録し、2021年3月10日には同作のレコード盤がポニーキャニオンから復刻販売された。

・Rainych Mayonaka no Door YouTube

 2021年3月21日、前述のRainychによるカバー「真夜中のドア〜Stay With Me」が初CD化、他アーティストによるカバーも多数収録したコンピレーションCD「CITY POP Voyage-STANDARD BEST」がタワーレコードから限定発売された。同月31日、1stアルバム「POCKET PARK」がポニーキャニオンより重量盤LPレコードで復刻販売された。

 2022年11月5日、1979年に製作された「真夜中のドア〜Stay With Me」のミュージックビデオが当時の監督である佐藤輝の手による再編集版「Miki Matsubara -Mayonaka no Door -stay with me(Music Video) Director's Cut 2022 by TELL SATO」としてYouTube公式チャンネル『Miki Matsubara Official "stay with me" 』にて公開。


Miki Matsubara Official "stay with me"  公式チャンネル YouTube

・Miki Matsubara 'Mayonaka no Door -stay with me'(Music Video) Director's Cut 2022 by TELL SATO YouTube

 2024年、パリパラリンピックの車いすテニス競技の男女シングルス決勝戦後に「真夜中のドア〜Stay With Me」が会場であるスタッド・ローラン・ギャロスのセンターコート(コート・フィリップ・シャトリエ)にて流された。この決勝戦では、男子の小田凱人、女子の上地結衣がそれぞれ優勝し、金メダルを獲得した。

アルバム

1980 POCKET PARK music

1980 Who are you? music

1981 ―Cupid―  music

1982 Myself music 

1982 彩 music

1983 REVUE music

1984 Cool Cut music 

1984 BLUE EYES music カバーアルバム

1985 LADY BOUNCE music 

1988 WiNK music

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1980 POCKET PARK music



1 真夜中のドア/Stay With Me

2 It’s So Creamy

3 Cryin’

4 That’s All

5 His Woman

6 Manhattan Wind

7 愛はエネルギー

8 そうして私が

9 Trouble Maker

10 Mind Game

11 偽りのない日々

12 真夜中のドア/Stay With Me (Original club mix Mixed by D.O.I.) (Bonus Track)


1980 Who are you? music



1 あいつのブラウンシューズ

2 気まぐれうさぎ -Run Rabbit Run-

3 Rainy Day Woman

4 Hello Walls

5 Jazzy Night

6 Marshia

7 Howa Howa Shuwa Shuwa -宇宙ネコの舌ざわり-

8 夕焼けの時間です

9 Who are you?

10 Twinkle Twinkle Starlight -三日月形の犬をもとめて-


1981 ―Cupid―  music



1 10カラット・ラブ

2 ONE WAY STREET

3 青いボールペン

4 私はもどれない

5 オアシス

6 -CUPID-

7 ニートな午後3時

8 スーヴェニール

9 ONE SUMMER NIGHT

10 DREAM IN THE SCREEN


1982 Myself music


1 バレリーナ

2 三人で踊らない

3 微熱が平熱

4 Somewhere

5 カランドリエ

6 流星スウィング

7 SEE-SAW LOVE(シーソー・ラブ)

8 5つ数える間に

9 ハレーション

10 Myself (インストルメンタル)

11 Three Candles


1982 彩 music



1 Change

2 トランプのお城

3 予言

4 サラダ★SALAD

5 会えない夜には

6 10cmヒール

7 Sugar Me

8 ひとりぼっちが楽しくて

9 Bay City Romance

10 ミセス


1983 REVUE music



1 ムーンナイトレビュー

2 雨のちハレルヤ

3 Sweet サレンダー

4 シャンデリア・ミラージュ

5 遅れて来た九月

6 彼女のいちばん素敵な夜

7 アラモード

8 スターダスト レイン

9 風のフォトグラフ

10 もう一度Fall in Love


1984 Cool Cut music 



1 真夏のゲーム

2 Knock, Knock, My Heart

3 チャイナタウンの殺人鬼

4 Ice Heart ~その気もないのに~

5 マンハッタンのかけら

6 Cry for Me

7 ウィークエンドは軽い病気

8 Caribbean Night

9 Riverside Tango

10 Cinnamon Tea

11 French Cinema


1984 BLUE EYES music カバーアルバム



1 Love for sale

2 Misty

3 You’d be so nice to come home to

4 Wave

5 Love letters

6 Cheek to cheek

7 You’ve got a friend

8 Tea for two

9 When you wish upon a star


1985 LADY BOUNCE music 



1 12月のパリ

2 魔法じゃないの

3 恋にお招ばれ

4 モダンに殺気

5 Bon Voyage

6 恋するセゾン ~色恋来い~

7 逃避行

8 サングラスはもういらない

9 終りゆく夏

10 恋はふたたび旅立つ


1988 WiNK music



1. B・S・T

2. 女神の右手

3. ハートの鍵貸します

4. IN THE ROOM

5. Sorry

6. カフェ・イ・アルテ

7. "Be"-ROCK

8. メロディアス

9. 路上のパラダイス

10. 雨の中の女


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2025年2月15日土曜日

シュープリームス、ダイアナ・ロス

 シュープリームス The Supremes


ウィキペディアより

ザ・スプリームス(The Supremes)は、アメリカ合衆国の4人組ガールズ・グループ。1959年結成、1977年解散。長い活動期間の中で所属レコード会社や音楽性は何度か変わっているが、その全盛期は1964年ごろから1969年までである。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第96位。

日本では従来、supreme(「最高位の、最大級の」の意)の英音 [s(j)ʊpɹíːmz, s(j)uː-] から“シュープリームス”と表記されていた。21世紀に入り、米音 [səpɹíːmz, sʊ-] に近づけて“スプリームス”と表記する例が多いが、より原音に近い発音は「ザ・スプリームズ」であるものの、依然として作品には“シュープリームス”の表記が用いられる。

歴史

 1959年、ザ・プライメッツ(The Primettes)として結成。オリジナルメンバーは、ダイアナ・ロスとメアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードにベティ・マグロウンの4人。ベディはすぐバーバラ・マーティンに替わり、そのバーバラも抜けて1961年、ザ・スプリームスと改名してモータウンと契約した頃には3人組となっていた。

 スプリームスは、モータウンの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアの強力なプッシュを受け、ホーランド=ドジャー=ホーランドの作曲・プロデュースの下でヒットを連発した。1963年10月の「恋のキラキラ星」で初めてビルボードTop40内にチャートイン。そして、1964年6月の「愛はどこへ行ったの」が、初の全米No.1となったのを皮切りに、シングルが5作連続全米No.1を記録、スプリームスは一躍全米のアイドルグループとなる。その他の60年代の代表的なヒット曲には「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」「恋はあせらず」「恋ははかなく」「ベイビー・ラブ」「ラブ・チャイルド」などがある。66年のアルバム『シュープリームス・ウイスキー・ア・ゴーゴー』はガール・グループのアルバムが、アルバムチャート1位になった最初の例だという。

その後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなった「またいつの日にか(Someday We'll Be Together)」まで、合計「12作の全米No.1ヒット」を生み出した。

1967年、ダイアナだけを前面に押し出したベリーの売り方に不満を募らせ、アルコール中毒に陥ったフローレンスが解雇され、シンディ・バードソングが加入。グループ名も、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス(Diana Ross & the Supremes)となった。1969年には、ダイアナ・ロスが独立しソロに転向[注 1]。替わりのリード歌手としてジーン・テレルが加わる。

 ダイアナの抜けた70年代以後のザ・スプリームスは、ベリーの強力な後ろ盾を失ったことで次第にヒット・チャートからは遠ざかったものの、メアリーをリーダーとしてメンバーを入れ替えながら活動を続けた。1972年には、シンディの代わりにリンダ・ロウレンスが参加。1973年、ジーンとリンダが脱退し、再参加となるシンディとシェリー・ペインが加入。1976年には、再びシンディが抜け、代わりにスーゼイ・グリーンが参加した。フローレンスは、その後ソロ歌手として2枚のシングルを出したがヒットせず、1976年に32歳で死去している(この悲劇を脚色して描いたのが、ミュージカル『ドリームガールズ』である)。

1977年、最後のオリジナルメンバーであったメアリーが独立を決意し、ロンドンでフェアウェル・コンサートが行われた。一般的には、この時点でスプリームスの歴史は幕を閉じたとされている。

 1986年、元メンバーであるジーンとシェリー、リンダの3人が集まり、新たにスプリームスとして活動を再開する。オリジナルメンバーのいないこのスプリームスは、The FLOS(The Former Ladies of the Supremes 、「元・スプリームスの淑女たち」の略)と呼ばれて、オリジナルとは区別されている。ジーンの引退など、若干のメンバーチェンジを経て、このグループは現在も活動を続けている。

 一方、全盛期のメンバーであるダイアナとメアリー、シンディの3人での再結成の動きもなくはなかったが、1983年、NBCテレビの特番での騒動をきっかけに、ダイアナとメアリーの不仲が表面化し、マスコミで報じられた。

1988年、ロックの殿堂入りを果たした。

 2000年、ダイアナは、スプリームス再結成ツアーの計画にメアリーとシンディを誘ったが、プロモーターの提示するダイアナとの待遇の違いから2人は固辞、代わりにFLOSからリンダとシェリーが加わったが、高価なチケット代金に加えて全盛期のメンバーでない2人への風当たりは強く、この中途半端な再結成プロジェクトは、ツアー半ばで打ち切られた。

2021年2月8日、メアリー・ウィルソンがラスベガスの自宅にて死去。死因は明らかにされていない。76歳没。
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主なヒット曲

When the Lovelight Starts Shining Through His Eyes(1963) - 邦題「恋のキラキラ星」。3人組として初のヒット曲。 music

◎Where Did Our Love Go(1964) - 邦題「愛はどこへ行ったの」 music

Baby Love(1964) - 邦題「ベイビー・ラヴ」 music

Come See About Me(1964) - 「カム・シー・アバウト・ミー」」 music
  
Stop! In the Name of Love(1965) - 邦題「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」。 music

 ・イギリスのグループ、Holliesがカバーしてヒットさせた。

Back in My Arms Again(1965) - 邦題「涙のお願い」 music

I Hear a Symphony(1966) - 邦題「ひとりぼっちのシンフォニー」 music

◎You Can't Hurry Love(1966) - 邦題「恋はあせらず」 music
(フィル・コリンズがカバーし、83年にヒットさせた。)

My World Is Empty Without You(1966) - 邦題「二人だけの世界」 music

Love Is Like an Itching in My Heart(1966) - 邦題「乱れるハート」 music

◎You Keep Me Hangin' On(1966) - 邦題「ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン」
 日本ではヴァニラ・ファッジのカヴァーの方が知られていた時期が長かった。またキム・ワイルドが87年にヒットさせている。

Love is Here and Now You're Gone(1967) - 邦題「恋ははかなく」 music

The Happening(1967) - 邦題「恋にご用心」 music

Love Child(1968) - 「ラブ・チャイルド」 music

I'm Gonna Make You Love Me(1968):テンプテーションズと共演したヒット曲。ケニー・ギャンブルが作曲に関わっている。 music

I'm Livin' in Shame(1969) - 邦題「スラムの小鳩」 music

Someday We'll Be Together(1969) - 邦題「またいつの日にか」 music
これ以降は、ダイアナ脱退後の楽曲。

Stoned Love(1970) music
全米7位を記録した、ダイアナ脱退後のスプリームスの代表曲。

I'm Gonna Let My Heart Do the Walking(1976) music

アルバム

・The Supremes

1962 Meet The Supremes 
1964 Where Did Our Love Go
1964 A Bit of Liverpool
1965 The Supremes Sing Country, Western and Pop
1965 We Remember Sam Cooke 
1965 More Hits by The Supremes
1965 Merry Christmas 
1966 I Hear a Symphony 
1966 The Supremes A' Go-Go music
1967 The Supremes Sing Holland–Dozier–Holland music
1967 The Supremes Sing Rodgers & Hart

・Diana Ross & the Supremes


1968 Reflections
1968 Diana Ross & the Supremes Sing and Perform "Funny Girl"
1968 Diana Ross & the Supremes Join The Temptations
1968 Love Child
1969 Let the Sunshine In
1969 Together
1969 Cream of the Crop

・The Supremes

1970 Right On
1970 The Magnificent 7
1970 New Ways but Love Stays
1971 The Return of the Magnificent Seven 
1971 Touch
1971 Dynamite 
1972 Floy Joy 
1972 The Supremes Produced and Arranged by Jimmy Webb
1975 The Supremes
1976 High Energy
1976 Mary, Scherrie & Susaye






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ダイアナ・ロス


ウィキペディアより

ダイアナ・ロス(Diana Ross、Diane Ernestine Earle Ross、1944年3月26日 - )は、アメリカ合衆国のポップ・ソウルの女性歌手。

1959年 - 1969年、スプリームス

 ミシガン州デトロイト出身。ハイスクール時代の1959年に、女性4人組のコーラス・グループ、プライメッツを結成。プライメッツは、1961年にモータウンと契約、3人組となってザ・スプリームスとしてデビューした。

 ダイアナは、ザ・スプリームスのリードシンガーとして「恋はあせらず」、「愛はどこへ行ったの」、「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」、「キープ・ミー・ハンギン・オン」、「ベイビー・ラブ、ラブ・チャイルド」など、数々のヒット曲を放ち、スターの仲間入りを果たした。ヒット曲の多くは、モータウンの看板作曲家チームのホーランド=ドジャー=ホーランドの作品である。元々、ダイアナ一人が目立っていたザ・スプリームスだったが、1967年にはメンバーチェンジを機に、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスと正式にグループ名が変わった。68年から69年にかけて、ますますリードシンガーのダイアナ一人に注目が集まるようになったが、メアリー・ウィルソンとシンディ・バードソングはバックで歌い続けた。

1970年以降/ソロ時代


 ザ・スプリームスの人気が一段落した1970年に、ダイアナはグループを脱退。ソロ歌手として活動を始める。ソロ転向後も、同年リリースの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(1970)[注 3]を皮切りに、「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」(1973)、「マホガニーのテーマ(Theme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To))」(1976)、「ラブ・ハング・オーバー」、「アップサイド・ダウン」、「アイム・カミング・アウト」などの大ヒットを放ち、ソロ歌手としての地位を確立した。また70年代後半のディスコ全盛時代には、ゲイのDJやゲイのディスコ客らによって、ドナ・サマー、グロリア・ゲイナーらと並んで「ディスコ・クイーン」の地位にまつりあげられた。

 1971年、ビリー・ホリデイの伝記映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』に主演として起用され映画女優デビューした。この配役に関して批判もあったが、1972年10月に映画が公開されると、彼女の演技は好評だった。ロスの演技によりゴールデングローブ賞およびアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞新人賞を獲得した。サウンドトラックもヒットし、Billboard 200で2週連続第1位を獲得し、発売後8日間で30万枚を出荷し当時の記録を破った。200万枚近くを売り上げ、ロスのアルバムのベストセラーの1つとなった。

 1975年に公開された、ロスの2本目の映画『マホガニー物語』でも主演を務め、ロス自身が衣裳デザインを担当した。ファッション・デザイナーを志望する女性がトラブルに巻き込まれながらランウェイ・モデルとなり業界最高峰となる話であった。監督は当初トニー・リチャードソンであったが製作途中で降板し、ベリー・ゴーディが引き継いだ。ゴーディとロスは撮影の最中衝突し、ロスは撮影終了前にプロダクションから離脱したためゴーディは秘書のエドナ・アンダーソンをボディ・ダブルに起用した。興行収入の上では成功したが批評家からの評価は低く、『タイム』誌はゴーディを「アメリカで最も才能のある者の1人であるダイアナ・ロスの無駄遣い」と非難した。1976年、『ビルボード』誌のランキングでロスが歌う主題歌が第1位を獲得した。

 1977年、モータウンはライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』を全員アフリカ系アメリカ人出演者によりブロードウェイで上演していた『ザ・ウィズ』の映画化権を獲得した。当初映画には舞台出演者が多く出演することになっていた。しかしドロシー役は舞台版ではステファニー・ミルズが演じていたが、ロスが映画プロデューサーのロブ・コーエンに自分を配役するよう掛け合ったためにドロシー役はロスが配役された。このためドロシーは学生から学校の先生に脚本が変更された。カカシ役も舞台で演じた役者ではなく元モータウンのマイケル・ジャクソンが配役された。映画『ウィズ』は2,400万ドルで製作されたが、1978年10月公開以降興行収入は2,105万ドルであった。公開前にCBSにテレビ放映権を1千万ドルで売却していたが、モータウンとユニバーサルは1,040万ドルの損失となった。当時ミュージカル映画で最も高額な製作費であった。この映画の失敗により、ロスの大作映画での短いキャリアは終了し、1970年代初頭から中期にかけてのブラックスプロイテーション時代に人気のあった全員黒人出演者による映画製作はハリウッドから遠のいていった。『ウィズ』はロスにとってモータウンで最後の映画となった。

 1973年初頭、ホリデイの「Good Morning Heartache」のロス版はあまりヒットしなかったが、1975年後期、「Theme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To)」はロスにとって3枚目の第1位となった。3年後、ロスとマイケル・ジャクソンの「Ease on Down the Road」はまずまずのヒットとなった。彼らの2枚目のデュエットで『ウィズ』のアンサンブルの一部であった『Brand New Day』は海外でもヒットした。1980年後期、映画『It's My Turn』のテーマ曲がトップ10にランクインした。


 1980年の「アップサイド・ダウン」では、ナイル・ロジャースのプロデュースによるディスコ・サウンドとセクシーなイメージ戦略で新境地を開いた。翌1981年には元コモドアーズのシンガーソングライターであるライオネル・リッチーと映画『エンドレス・ラブ』のテーマ曲「エンドレス・ラブ」をコラボレートし、この曲は全米1位を記録し、アカデミー賞主題歌賞にノミネートされ、モータウン・レコード最後のヒット曲となり、年間でも第1位の曲となった。

 1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリード・ボーカルを採った。 1984年に不慮の死を遂げたマーヴィン・ゲイ(1973年にデュエット作をリリース)に捧げた「ミッシング・ユー」の後は、アメリカではヒットに恵まれていないが、1988年、ロスは『リトルフット』のテーマ曲をレコーディングした。

 日本では1990年に「イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥゲザー」がテレビドラマ『想い出にかわるまで』の主題歌に採用され、ヒットとなった。

 1993年、テレビ映画『Out of Darkness』に出演し、女優業を再開した。この演技は称賛され、ゴールデングローブ賞3回目のノミネートとなった。1999年、ブランディと共にテレビ映画『Double Platinum』に主演し、その直後にアルバム『Every Day Is a New Day』がリリースされた。

2000年以降

 2000年には、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた「ディーヴァズ・ライヴ“ダイアナ・ロス・トリビュート”」に、マライア・キャリーやドナ・サマーらと共に出演し、2005年にはアイルランドのアイドルグループ、ウエストライフがダイアナとのデュエット曲をリリース、久々の現場復帰を果たした。

 また、幼い頃から親交が深いマイケル・ジャクソンの事件やトラブルの時は弁護し、マイケルのドキュメンタリーにも出演している。遺言書にマイケルの子供達の後見人であるマイケルの母キャサリン亡き後の後見人に指名されているが、マイケルの追悼式や埋葬式には出席しておらず、これを受けるかに関しても公に発言していない。

 子女の芸能界入りおよび婚姻(娘のトレイシー・エリス・ロスは女優となり、息子のエヴァン・ロス(英語版)は歌手となって女優のアシュリー・シンプソンと結婚)により、現在のロス一家が徐々に芸能家族となっている。

ナンバーワン・ヒッツ

ダイアナはスプリームス時代に12曲、ソロとして6曲、計18曲のBillboard Hot 100 1位のヒットを放っている。これはザ・ビートルズの20曲に次ぐ史上2位の記録である。

スプリームス時代

Where Did Our Love Go(1964)
Baby Love(1964)
Come See About Me(1964)
Stop! In the Name of Love(1965)
Back in My Arms Again(1965)
I Hear a Symphony(1965)
You Can't Hurry Love(1966)
You Keep Me Hangin' On(1966)
Love is Here and Now You're Gone(1967)
The Happening(1967)
Love Child(1968)
Someday We'll Be Together(1969)

ソロ

Ain't No Mountain High Enough(1970) music

Touch Me In the Morning(1973) music

◎Theme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To)(1975) music
 ・・歌詞和訳 ブログ

Love Hangove(1976) music 

Upside Down(1980) music

◎Endless Love(1981) music


2025年2月14日金曜日

これらの曲はパクり? YouTube

これらの曲はパクり?


サンプリング
オマージュ
インターポレーション:引用

知らない曲ばかり・・・

・ロゼ、ブルーノマーズ アト

 APT. / Rose and Bruno Mars  YouTube 記事


 BLACKPINKのロゼが10月18日(金)、ブルーノ・マーズとタッグを組んだ待望の新ソロ曲「Apt.」をリリース。デビューシングルとは異なるポップでキャッチーなメロディとMVで、すでに世界中から大きな反響を呼んでいる。
12月6日(金)に自身初となるスタジオアルバム、『Rosie』のリリースを控えているBLACKPINKのロゼ。2021年にシングル「On the Ground 」と「Gone」をフィーチャーした初のソロプロジェクト『R』でヒットを飛ばして以来3年ぶりということもあり、ファンたちの期待は高まるばかりだ。

 そんななか、ロゼは10月8日(金)にブルーノ・マーズとタッグを組んだ先行公開シングル「Apt.」をリリース。デビューシングルの雰囲気とは異なり、本格的にポップなメロディと思わず口ずさみたくなる韓国語の「아파트(アパトゥ)」という掛け声が印象的な一曲は、すでに世界中から大きな反響を呼んでいる。

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元ネタ
ミッキー トニー・ベイジル

MICKEY Toni Basil  1982 music 


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デュア・リパ ブレイク・マイ・ハート

アルバム Future Nostalgia 2020 music

 9曲目 Break My Heart  


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元ネタ
・アルバム Kick 1987 INXS music

4曲目Need You Tonight  INXS  インエクセズ



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プリズナー デュア・リパ


元ネタ1 
アイ・ワズ・メイド・フォー・ラヴィング・ユー キッス

元ネタ2
フィジカル オリビア・ニュートン・ジョン

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ギャングスタズ・パラダイス クーリオ


元ネタ
パスタイム・パラダイス スティーヴィー・ワンダー


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ラッパーズ・ディライト  シュガーヒル・ギャング
Rapper's Delight music music



元ネタ
グッドタイムス シック


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途中