2025年4月7日月曜日

人生を簡単に変える音楽 YouTube

 これ聴いてないのに音楽好きってマジ?? 人生を簡単に変える音楽「体験」ができるアルバム11枚。

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11枚

1.黒い聖者と罪ある女 1963 チャーリー・ミンガス 

#1 音の洪水 music



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2.Close to the Edge 1972 YES

#2 なんだかわかんないけど、すごい music


note Yes の『Close to the Edge』を聴いてみた編 ☆彡



 内山 結愛 Twitter

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3.APPETITE FOR DESTRUCTI 1987 Guns N' Roses

#3 衝動と破壊のエナジー、確かな芸術性 music  ☆彡 


ガンズ・アンド・ローゼズのデビュー・アルバム。

発売当時のジャケットは、ロバート・ウィリアムス(英語版)作の絵画"Appetite for Destruction"(ロボットが女性をレイプする内容)を使用していたが、発売直後にクレームがつき、十字架のタトゥー柄に変更となった。「レイプ・ジャケット」は、後に日本発売のみのライブ・ミニ・アルバム『EP(邦題「ライブ・フロム・ザ・ジャングル」)』に流用された後、1990年の日本再発版ではオリジナル・ジャケットが使用された。



最終曲「ロケット・クイーン」のブリッジ部分には、女性がクライマックスを迎える声が収録されているが、これはアクセル・ローズが、スティーヴン・アドラーの彼女だったアドリアーナ・スミスとスタジオで性行為に及び録音したものである。しかしその後、アドリアーナ・スミスは罪悪感と恥辱感に苦しみ、数年間、後遺症に悩まされた。


記事 【名盤 全曲解説】ガンズ・アンド・ローゼズ、あなたの知らない「アペタイト・フォー・ディストラクション」

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4.MTV Unplugged In New York 1994 Nirvana

#4 魂の奥を覗く時 music


記事 ニルヴァーナ『MTV Unplugged In New York』:彼の死から7カ月後に発売された史上最高のライヴ盤

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5. Metropolis Pt. 2 : Scenes from a Memory 1999

Dream Theater

#5 壮大な物語 music 


ウィキペディアより

ドリーム・シアター (Dream Theater) は、アメリカ合衆国出身のプログレッシブ・メタルバンド。

「フェイツ・ウォーニング」らと並び、米国産プログレッシブ・メタルの草分け的存在として知られる。度々の来日実績があり、日本でも高い支持を得る。

イエス、ジェネシスなどの構築的なプログレッシブ・ロックと、アイアン・メイデンやメタリカなどのドラマティックな展開を持ったヘヴィメタルの双方に影響を受け、それらを各々の豊かな演奏技術と多彩なバックボーンで組み合わせたスタイルを築き上げている。ことに双方の要素を色濃く持つ音楽性のラッシュについては、メンバーが(特にアルバム『アウェイク』の頃まで)あちこちのインタビュー等でその影響を公言していた。


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6.Lift Your Skinny Fists like Antennas to Heaven 2000

 Godspeed You! Black Emperor

#6 一本の映画  music 

 暴走族のブラックエンペラーから、過激なロックをイメージしていたが、全く違っていた。


Amazonレビュー
 カナダ出身のこのバンドはノーカットアルバム第二弾として2枚組みCDをリリースし、野望に満ちたオーケストラロックの価値を引き上げた。典型的なロックバンド楽器であるドラムとギターに、ホルンと弦楽器を組み合わせ、モノトーンでゆっくりと盛り上がるメロディックな音を中心に作り上げられた音楽。繊細な挿入部分から大胆で壮大なクライマックスまで、昇降を繰り返す。ヴァイオリンとドラムが並列して作るみずみずしくロマンティックな作品は、レイチェルズを思い起こさせるが、彼らの作風のスケールと曲のダイナミックなピークの強烈な繰り返しはむしろ グレン・ブランカの『The Ascension』を彷彿させる。ディスクはそれぞれ21分の曲が2曲ずつとなっているが、パッケージには細かい説明も含まれていてわかりやすい。オープニングは5分にわたる15ビートのサーキュラーメロディックパターンで始まり、熱狂的な叫びへと盛り上がっていく中で、徐々に装飾音が加わっていく。そして毒舌的なギターソロをサポートするため、のどかなモノトーンにドロップし、やがて統合された 4/4拍子の規則正しいロックが爆発する。そのあとには、深夜営業のスウェルマップスのとりとめのないピアノ音と混ざり合った公共のアナウンスの録音が残される。他の曲も似たような音の構成を使って、聴き手を同様の旅に連れ出してくれる。ゴッズスピードの前作のファンはきっと満足するだろうし、興味のある人もぜひ聴いてみたくなるだろう。

amazonレビュー 重厚
 1stに引き続き、とにかく凄まじい世界観を内包したアルバム。好きな人はとことん好きになってしまうぐらいの悲哀と怒りが詰まってます。一曲一曲の個性もあるし、かなり長いのに入り込めれば飽きることはないと思います。というか、聞き込めば聞き込むほど新たな発見がある。このバンドの世界観に惚れた人には、ギタリストであるエフリムが後に結成するthee silver mt.zion memorial orchestra & tra-la-la bandも強くお勧めします。

 参考
thee silver mt.zion memorial orchestra & tra-la-la band ウィキペディア

→ Silver Mt. Zion music

 シルバー・マウント・ザイオンの音楽はポストロックと評されているが、歌手兼ギタリストのエフリム・メヌックはパンクロックの精神と美学に共感している。 バンドはレコードレーベルConstellationから7枚のスタジオアルバムと3枚のEPをリリースしている。
音楽、歌詞、テーマ
 バンドの楽曲で歌われている歌詞のほとんどはメヌックが書いているが、他のバンドメンバーも参加している。バンドの音楽には強い政治的モチーフがあり、無政府状態から戦争、自由まで様々な主題を扱っている。 2008年3月にリリースされた『13 Blues for Thirteen Moons』は、挿入歌に歌詞カードが入った初めてのアルバムだった。メヌックの耳障りなギターワークは、弦楽器、テープループ、重厚なドラムと組み合わさってバンドのサウンドを生み出している

Godspeed You! Black Emperor
ウィキペディアより

 1994年、カナダのモントリオールでエフリム・メナックとマウロ・ペッツェントの2人によって結成される。バンド名は1976年に公開された日本映画『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』から採られた。

ドキュメント映画 prime


note 本日の一曲 vol.428 ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR 2024年2月13日現在死者2万8340人 (Godspeed You! Black Emperor: "No Title As Of 13 February 2024 28,340 Dead, 2024)

アルバムに収録された曲は以下の6曲です。

1.SUN IS A HOLE SUN IS VAPORS (太陽は空虚、太陽は消え去る)

2.BABYS IN A THUNDERCLOUD (雷雲の中の赤ん坊たち)

3.RAINDROPS CAST IN LEAD (鉛で鋳造された雨のしずく)

4.BROKEN SPIRES AT DEAD KAPITAL (資本の終焉にある崩落した尖塔)

5.PALE SPECTATOR TAKES PHOTOGRAPHS (青ざめた傍観者が写真を撮る)

6.GREY RUBBLE - GREEN SHOOTS (「灰色の瓦礫」~破壊と「緑の芽」~再生)

加えて、リリース時に彼らは以下のメッセージを発しています。


"No Title= What gestures make sense while tiny bodies fall? What context? What broken melody? And then a tally and a date to mark a point on the line, the negative process, the growing pile"


ChatGPTに翻訳してもらうと以下のようになります。

「タイトルなし」

小さな体が落ちていく中で、どんな身振りが意味を持つのだろう?

どんな文脈で?

どんな壊れたメロディーだろう?

そして、一つの点を線上に刻むための記録と日付――負のプロセス、積み重なる山。

NO TITLE AS OF 13 FEBRUARY 2024 28,340 DEAD 2024 

music




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7.In The Aeroplane Over The Sea 1998
  Neutral Milk Hotel

#7 心の底から湧き上がる音楽の喜び music 

 悪くはないけど、言うほどここには刺さらなかった。

でも繰り返し聞いていくうちにクセになるかも。


・【全曲和訳】Neutral Milk Hotel - In the Aeroplane Over the Sea  note 

・ニュートラル・ミルク・ホテルという洋楽界の伝説 note

ニュートラル・ミルク・ホテル (Neutral Milk Hotel) は、アメリカ合衆国のインディー・ロックバンド。1990年代にギター・ボーカルのジェフ・マンガムを中心に活動していた4人組。1999年に活動を終了したが2013年に再結成を果たす。

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8.EXPERIENCED 2011 
 BOOM BOOM SATELLITES  ブンブンサテライツ

#8 日本にこんな最高のバンドがいたんだ。 music 




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9.The Black Parade 2006
 My Chemical Romance

#9 めんどくさい人はここだけ見ちゃっていいです music



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10.To Pimp A Butterfly 2015
 Kendrick Lamar 

#10 歴史上最高の音楽アルバム music




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11.Nurture 2021
 Porter Robinson

#11 このアルバムが好きな人は、音楽が好きな人  music 

 【=◈︿◈=】




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番外

10:23 他にもいっぱい1 60~70年代

#ジャズが好きなら

12.A Love Supreme 至上の愛 1965

 John Coltrane ジョン・コルトレーン

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 コルトレーンが神に捧げた、全4パート構成による組曲のアルバム。作曲に当たって、カバラの書物の影響を受けたという。異なるリズムを並走させるポリリズムは、メロディーと和音と音階とを軸とする西洋音楽ではなく、インドやアフリカといった地域の他にはないリズムから大きく影響を受けたと言われている。レギュラー・カルテットの渾身の演奏が高く評価された。本作でひとつの境地に達したコルトレーンは、その後より先鋭的でアバンギャルドなフリー・ジャズの領域に挑戦することとなる。

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13.Bitches Brew ビッチェズ・ブリュー 1970
 Miles Davis マイルス・デイヴィス

 前作『イン・ア・サイレント・ウェイ』に引き続き、エレクトリック・ジャズ路線を押し進めた内容で、「フュージョン」と呼ばれるジャンルを確立した、ジャズ史上最も革命的な作品の一つとみなされている。マイルスのアルバムとしては初めて、本国アメリカでゴールド・ディスクに達し[7]、総合チャートのBillboard 200で自身唯一のトップ40入りを果たした。その後も売れ続け、『カインド・オブ・ブルー』と並ぶマイルス最大のヒット作と言われている。

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#パンクが好きなら

14.LONDON CALLING 1979 The Clash

 music


参考 

14.Havana 3 A.M.



1 Joyride

2 Blue Motorcycle Eyes

3 Reach The Rock

4 Death In The Afternoon

5 Hole In The Sky

6 What About Your Future

7 The Hardest Game

8 Hey Amigo

9 Life On The Line

10 Surf In The City

11 Blue Gene Vincent

12 Living In This Town

 クラッシュのベーシスト、ポール・シムノンが結成したハバナ3a.m.の、91年にリリースされたファーストの初CD化。ロカビリー・テイストのストレートな演奏をベースに、ラテン・フレイヴァーをブレンドした音作りは10年前とは思えないほどモダンで、むしろ今の方が時代にマッチするように思える。クラッシュを彷彿とさせるロック、レゲエ・ナンバーからラテン・ホーン・セクションをフィーチャーした作品、マカロニ・ウェスタン調のインストまで、ジョー・ストラマーとの類似点も見出せるのが興味深い。 (保科好宏) --- 2002年02月号 -- 内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)

14.Texas Glitter & Tomstone Tales 2008
 Gary Myrick & Havana 3am

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ウィキペディア海外版より

 ゲイリー・マイリックはアメリカの歌手、ソングライター、ギタリストである。

 ポール・シムノン(ザ・クラッシュの元ベーシスト)、ナイジェル・ディクソン(ワールウィンドの元リードシンガー)、そしてマイリックがハバナ3amを結成。バンドは1991年にロカビリー、ラテン、パンクの伝統を融合したセルフタイトルのアルバムをリリース。シムノンがバンドを脱退した後、マイリックはディクソンと共に次のハバナ3amのアルバムの制作に取り掛かった。しかしディクソンは1993年に癌で他界。マイリックはハバナ3amを立て直し、トム・フェリセッタとジェイミー・シェズと共に1996年にアルバム『Texas Glitter and Tombstone Tales』を完成させた。


ルーツ・ロックへと向かう中で、マイリックは2001年のソロ・リリース『ワルツ・オブ・ザ・スケアクロウ・キング』で、シンプルなアコースティック・アプローチに切り替えた。ローリング・ストーンズの「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」のカバーをフィーチャーした『リインベント・ザ・ゴッズ』は、2004年に自主リリースされた。


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15.Hey Jude 


 ビートルズ


「ヘイ・ジュード」(Hey Jude)は、ビートルズの楽曲である。レノン=マッカートニー名義となっているが、ポール・マッカートニーによって書かれた楽曲。ビートルズが設立したアップル・レコードからの第1弾シングルとして1968年8月に発売され、B面には「レボリューション」が収録された。シングル盤は全英シングルチャートやBillboard Hot 100で第1位を獲得。その後、アメリカで1970年2月に発売されたコンピレーション・アルバム『ヘイ・ジュード』に収録された。

背景・曲の構成

 1968年5月、ジョン・レノンと妻シンシアは、ジョン・レノンがオノ・ヨーコとの不倫交際を始めたことをきっかけに別居。翌月、ポール・マッカートニーは当時5歳であった夫妻の長男であるジュリアンの元を訪れた[2]。両親の不仲により精神的に不安なジュリアンを気の毒に思ったマッカートニーは、帰宅途中の車の中で「ヘイ・ジュード」を作曲した[3]。当初のタイトルは「ヘイ・ジュールズ[注釈 1]」で、ジュリアンを慰めることを目的とした楽曲だった[4]。歌詞について、マッカートニーは「この曲は『ヘイ・ジュールズ』というタイトルから始まった。つまり、ジュリアンに『つらくても頑張って乗り越えるんだよ』って伝えること。彼にはつらいことのはずだったから」と語っている[5][6]。その後、タイトルは「Jude」に改められた。

 歌詞について、レノンは(自分がオノ・ヨーコに夢中だった時期だからか)「俺への歌との解釈も出来る。『go out and get her(彼女をものにしてこいよ)』というフレーズで、ポールは無意識に『僕の元を離れていいよ』と言っていたんじゃないかな」と発言しているが、これについてマッカートニーは否定している。またレノンを含む数名は「婚約者ジェーン・アッシャーに婚約を一方的に破棄されたポールのポール自身への無意識のメッセージではないか」と解釈しているほか、Judeは女性名でもあることから『デイリー・エクスプレス』の女性記者ジューディス・サイモンズへの歌と解釈する者もいる。


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16.Unknown Pleasures 1979

 Joy Division ジョイ・ディヴィジョン

music


ジョイ・ディヴィジョン (Joy Division) は、イギリスのロックバンド。music

 1976年にグレーター・マンチェスターのサルフォードで結成され、ポストパンクを代表するバンドの一つとして活躍。ボーカリストのイアン・カーティスの書く内省的な歌詞や特徴的なライブパフォーマンスは多くの人を惹きつけた。ところが、初のアメリカ・ツアーへの出発前日の1980年5月18日にカーティスが自殺。突然の悲劇によりバンドは解散を余儀なくされた。その後、残されたメンバーはニュー・オーダーを結成することになる。

活動期間も短かったがレディオヘッドなど1980年代末以降のオルタナティヴ・ロックに多大な影響を及ぼした[1]。また、代表曲の一つである「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパートLove Will Tear Us Apart」は80年代の名曲として名高い。


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17.The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars 1972

 David Bowie デヴィッド・ボウイ ウィキペディア

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18.The Wall 1979 

 ☆彡 Pink Floyd ウィキペディア

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19.What's Going On ☆彡

 Marvin Gaye マーヴィンゲイ ウィキペディア

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20.TOMMY 1969

 the who 

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・ザ・フー最高傑作『Tommy』解説:ある男の想像の産物であり、ある男が見る素晴らしい光景 udiscovermusic

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#女性ジャズ・ボーカルを聴くなら

 参考 

udiscovermusic 黒汁滴る女性ジャズ・ヴォーカル42傑

udiscovermusic 【全曲試聴付】史上最高の女性ジャズ・シンガー・ベスト25

21.Nina Simone ニーナ・シモン

music ウィキペディア


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22.Etta James エタ・ジャームス

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23.Avicii アヴィーチー 

music ウィキペディア




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15:16 他にもいっぱい2

24.STONE ROSES  1989

 STONE ROSES 

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 ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)は、イギリスのロックバンド。1983年にマンチェスターにて結成され、ニュー・オーダーやハッピー・マンデーズ、ザ・シャーラタンズといったバンドとともに、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在として活躍。『ザ・ストーン・ローゼズ』(1989年)と『セカンド・カミング』(1994年)の2作を発表した後、1996年に解散。オアシスをはじめとするブリットポップや後の音楽シーンに多大なる影響を与えた。

 解散後も幾度となく再結成が噂されてきたが、2011年10月18日に再結成することが正式発表され、2012年6月29日(金)から7月1日(日)までの3日間、マンチェスター北にあるヒートンパークにて合計22万人を集めたライブを行った。

曲目リスト

1 I Wanna Be Adored

2 She Bangs The Drums

3 Elephant Stone

4 Waterfall

5 Don't Stop

6 Bye Bye Badman

7 Elizabeth My Dear

8 (Song For My) Sugar Spun Sister

9 Made Of Stone

10 Shoot You Down

11 This Is The One

12 I Am The Resurrection

13 Fools Gold

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25.Heaven Or Las Vegas 1990

 Cocteau Twins コクトー・ツインズ music

 musicなし YouTube


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 コクトー・ツインズ(Cocteau Twins)は、1979年から1997年に活動したイギリス、スコットランドのロック・バンド。

note Cocteau Twins の『Heaven or Las Vegas』を聴いてみた編


曲目リスト

1 Cherry coloured funk YouTube

2 Pitch the baby

3 Iceblink luck

4 Fifty fifty clown

5 Heaven or Las Vegas

6 I wear your ring

7 Fotzepolitic

8 Wolf in the breast

9 River road and rail

10 Frou frou foxes in the midsummer fires


参考

・王菲 フェイ・ウォン - コクトー・ツインズに影響を受け、数曲カバーしている。

・・フェイ・ウォン(王菲)はドリームポップの伝説か──コクトー・ツインズとの蜜月がもたらしたもの 記事

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26.


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33:38 ほかにもいっぱい3


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19:06 ここだけでも1


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43:05 心と心で繋がり合うアート



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スレイド Slade

 スレイド Slade


ウィキペディア music

 スレイド(英語: Slade)は、1966年にイングランド・ウェスト・ミッドランズ州ウルヴァーハンプトンで結成されたロックバンドである。1970年初頭にグラムロック・ブームの一翼を担いつつヒット・チャートを席巻し、1980年代に入っても人気を得た。

1992年にリード・ボーカルとギターのノディ・ホルダーとベースのジム・リーが脱退したことにより、バンドは停滞。その後、「スレイドII」として活動を再開し、後にグループ名を戻した。

キッスのジーン・シモンズが、スレイドからの影響を公言している。

なお、スレイドの楽曲には「Coz I Luv You」「Skweeze Me Pleeze Me」など、間違ったスペリングをタイトルに用いた曲が多いが、これは意図的なものである。

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スタジオ・アルバム

ビギニングス Beginnings 1969 

プレイ・イット・ラウド Play It Loud 1970

スレイド? Slayed? 1972 

Sladest 1973 music 

 「カモン!!」(原題 : Cum On Feel the Noize)は、スレイドの楽曲。作詞作曲はノディ・ホルダーとジム・リー(英語版)で、プロデューサーはチャス・チャンドラー。1973年にシングルで発売され、全英シングルチャートで4週連続で1位を獲得し、12週にわたってチャートインした[4]。オリジナル・アルバムには未収録となり、コンピレーション・アルバム『スレイデスト』でアルバム初収録となった。

曲目リスト

1 Cum on Feel the Noize

2 Look Wot You Dun

3 Gudbuy T'jane

4 One Way Hotel

5 Skweeze Me, Pleeze Me

6 Pouk Hill

7 The Shape of Things to Come

8 Take Me Bak 'Ome

9 Coz I Luv You

10 Wild Winds Are Blowing

11 Know Who You Are

12 Get Down and Get with It

13 Look at Last Nite

14 Mama Weer All Crazee Now

15 Hear Me Calling

16 My Friend Stan

17 My Town

18 Kill 'Em at the Hot Club Tonite

19 Skweeze Me, Pleeze Me (Usa 7" Edit)

20 Merry Xmas Everybody

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大狂乱スレイド一座 Old, New, Borrowed and Blue 1974 

狂乱の炎 Slade in Flame 1974 

ノーボディズ・フール Nobody's Fools 1976 

衝撃の炎 Whatever Happened To Slade? 1977 

リターン・トゥ・ベース Return to Base 1979 

ブリング・ザ・ハウス・ダウン We'll Bring the House Down 1981 

ティル・デフ・ドゥ・アス・パート Till Deaf Do Us Part 1981 

◎神風シンドローム The Amazing Kamikaze Syndrome 1983 music

曲目リスト

1 Slam The Hammer Down

2 In The Doghouse

3 Run Runaway

4 High And Dry

5 My Oh My

6 Cocky Rock Boys (Rule O.K.)

7 Ready To Explode/I: The Warm Up/II: The Grid/III: The Race/IV: The Dream

8 (And Now - The Waltz) C’est La Vie

9 Cheap ’N’ Nasty Luv

10 Razzle Dazzle Man

11 Can’t Tame A Hurricane

12 Keep Your Hands Off My Power Supply

13 Two Track Stereo, One Track Mind

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ローグス・ギャラリー Rogues Gallery 1985 

クラッカーズ Crackers: The Party Album 1985 

ボーイズ・メイク・ビッグ・ノイズ You Boyz Make Big Noize 1987 

キープ・オン・ロッキン Keep on Rockin' 1987 

  ※2002年に「Cum On Let's Party」に改題されて再発売された。


Cum On Feel the Hitz: The Best of Slade 2020

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ライブ・アルバム

『スレイド・アライブ』 - Slade Alive(1972年3月24日、ポリドール)

『スレイド・アライブVol.2』 - Slade Alive, Vol. 2(1978年10月27日、バーン)

『スレイド・オン・ステージ』 - Slade On Stage(1982年12月11日、RCA)

『Slade Alive! - The Live Anthology』(2006年8月21日、サルーボ)

『Live at the BBC』(2009年9月28日、サルーボ)



2025年4月6日日曜日

ディープ・パープル Deep Purple

 ディープ・パープル Deep Purple


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 ディープ・パープル(英語: Deep Purple)は、イギリスのイングランド出身のハードロック・バンドである。

レッド・ツェッペリンと並ぶハードロック・バンドの代表格の一つに数えられ、後続のバンドや多くのヘビー・メタル・バンドに多大な影響を与えた。

1968年結成。1976年に第4期のグループが解散。1984年に第2期のメンバーによって再結成。2024年現在、第10期が活動中である。

アルバムセールスは、全世界で1億枚を突破している。2016年度に「ロックの殿堂」入りを果たした。

概要

 ディープ・パープルは長い歴史の中で多くのメンバー・チェンジを繰り返すも、ボーカル/ベース/ギター/キーボード/ドラムという構成を一貫して保ち、大音量のハードロック演奏を繰り広げてきた。初代ギタリストのリッチー・ブラックモアはハード・ロック・ギタリストの筆頭格と認識され、ハードロックやヘビーメタルロックのギタリストに絶大な影響を与え、多くの心酔者と追随者を生んだ。

 ディープ・パープルの特徴の一つとして挙げられるのは、レッド・ツェッペリンや多くのハードロック・バンドと異なり、キーボードがギターとほぼ同等の比重を占めることである。初代キーボーディストのジョン・ロードは、ロック・ミュージックのハモンド・オルガン奏者のパイオニアの一人であり、ハモンド・オルガンをハードロックに導入するという大きな功績をあげた。

 代表曲には「ハッシュ」「ブラック・ナイト」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「紫の炎」「ウーマン・フロム・トーキョー」「スペース・トラッキン」「スピード・キング」「チャイルド・イン・タイム」などがある。

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結成 - 解散宣言

スタジオ・アルバム

『ハッシュ』 - Shades of Deep Purple (1968年発表、第1期) music

『詩人タリエシンの世界』 - The Book of Taliesyn (1968年発表、第1期)

『ディープ・パープル III』 - Deep Purple - (1969年発表、第1期)

『ディープ・パープル・イン・ロック』 - Deep Purple in Rock (1970年発表、第2期)

『ファイアボール』 - Fireball(1971年発表、第2期)

『マシン・ヘッド』 - Machine Head (1972年発表、第2期) music

曲目リスト

1 Highway Star

2 Maybe I'm A Leo

3 Pictures Of Home

4 Never Before

5 Smoke On The Water

6 Lazy

7 Space Truckin'

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『紫の肖像』 - Who Do We Think We Are (1973年発表、第2期)

『紫の炎』 - Burn (1974年発表、第3期) music

曲目リスト

1 Burn (2004 Digital Remaster)

2 Might Just Take Your Life (2004 Digital Remaster)

3 Lay Down, Stay Down (2004 Digital Remaster)

4 Sail Away (2004 Digital Remaster)

5 You Fool No One (2004 Digital Remaster)

6 What's Goin' On Here (2004 Digital Remaster)

7 Mistreated (2004 Digital Remaster)

8 'A' 200 (2004 Digital Remaster)

9 Coronarias Redig (Single B-Side 2004 Remix)

10 Burn (2004 Remix)

11 Mistreated (2004 Remix)

12 You Fool No One (2004 Remix)

13 Sail Away (2004 Remix)

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『嵐の使者』 - Stormbringer (1974年発表、第3期)

『カム・テイスト・ザ・バンド』 - Come Taste the Band (1975年発表、第4期)


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ライブ・アルバム

『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』 - Concerto for Group and Orchestra (1969年発表)

『ライヴ・イン・ジャパン』 - Made in Japan (1972年日本公演を収録、1972年発表)

『イン・コンサート』 - Deep Purple in Concert (1970年と1972年の公演を収録、1980年発表)

『カリフォルニア・ジャム 1974』 - California Jam 1974 (1974年カリフォルニア・ジャムでの公演を収録)

『ライヴ・イン・ロンドン』 - Live in London (1975年ロンドン公演を収録、1982年発表)

『メイド・イン・ヨーロッパ』 - Made in Europe (1975年ヨーロッパ公演を収録、1976年発表)

『紫の昇華〜ザ・ファイナル・コンサート〜』 - Mk III: The Final Concerts (1975年ヨーロッパ公演を収録、1996年発表)

『ラスト・コンサート・イン・ジャパン』 - Last Concert in Japan (1975年日本公演を収録、1977年発表)

『ライブ・イン・ジャパン1975』 - This Time Around: Live in Tokyo (1975年日本公演を収録、2001年発表)

『紫の神技〜ライブ・イン・カリフォルニア・ロング・ビーチ・アリーナ1976』 - King Biscuit Flower Hour Presents: Deep Purple in Concert (1976年アメリカ公演を収録、1995年発表)

『ジェミニ・スイート・ライヴ』- Deep Purple And The Orchestra Of The Light Music Society Conducted By Malcolm Arnold – Gemini Suite Live [76](1970年ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで録音、1993年発表)


エルヴィス・プレスリー Elvis Presley

 エルヴィス・プレスリー Elvis Presley

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 エルヴィス・アーロン・プレスリー(Elvis Aron Presley、1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカ合衆国の歌手[9][10]、俳優[11]。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている[12][13]、史上最も売れた音楽家の一人[14][15]。「キング・オブ・ロックンロール」と称される[16]。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている[17]。

概要

 1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ビル・ヘイリーらと共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、ボブ・シーガー、フレディ・マーキュリー、テリー・スタッフォードなど、多くのロック、ポップのミュージシャンたちが憧れたことでも知られる(下段・フォロワーを参照)。


 初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。

 その後全国的な人気を得たが、白人社会だった当時は保守層から「プレスリーはセックス狂」や「彼は白人を黒人に陥れる」など、凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」も問題となり、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWK FM & AMラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。

 そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思ってないさ。自分を表現する方法なんだ」「俺は人々に悪影響を与えてるとは思わない。もしそう思ったら、俺はトラック運転手に戻るよ。本気でそう思ってるんだ」と答えている。

 プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。

 プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位。

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オリジナルアルバム

エルヴィス・プレスリー登場!(Elvis Presley) 1956 music 

エルヴィス(Elvis) 1956 music 

エルヴィス・クリスマス・アルバム(Elvis' Christmas Album) 1957 music 

Elvis' Golden Records 1958 music

エルヴィス・イズ・バック(Elvis Is Back!) 1960 なし YouTube

心のふるさと(His Hand in Mine) 1960 music 

歌の贈り物(Something for Everybody) 1961 なし YouTube

ブルー・ハワイ 1961 music 

ポット・ラック(Pot Luck) 1962 なし YouTube

ゴールデン・ヒム(How Great Thou Art) 1967 なし YouTube

エルヴィス・イン・メンフィス(From Elvis in Memphis) 1969 なし YouTube

バック・イン・メンフィス(Back in Memphis) 1970 music

That's the Way It Is (Deluxe Edition) 1970 music 156曲 • 8時間54分

エルヴィス・カントリー(Elvis Country (I'm 10,000 Years Old)) 1971 なし YouTube

ラヴ・レター・フロム・エルヴィス(Love Letters from Elvis) 1971 なし

初めてのクリスマス(Elvis Sings the Wonderful World of Christmas) 1971 なし

エルヴィス・ナウ(Elvis Now) 1972 なし

至上の愛(He Touched Me) 1972 なし

フール(Elvis) 1973 music 

ロックン・ロール魂(Raised on Rock/For Ol' Times Sake) 1973 なし

グッド・タイムズ(Good Times) 1974 なし

約束の地(Promised Land) 1975 なし

エルヴィス・トゥデイ(Today) 1975 なし

メンフィスより愛をこめて(From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee) 1976 

ムーディ・ブルー(Moody Blue) 1977

1977年 逝去

The King of Rock 'n' Roll: The Complete 50's Masters 1992 music 140曲 • 5時間37分

エルヴィス~ベスト・ヒッツ・イン・ジャパン 2002 music 

The Essential Elvis Presley 2007 music 

If I Can Dream: Elvis Presley with the Royal Philharmonic Orchestra 2015 music

MEMPHIS 2024 music 111曲 5時間36分 

 聞き流していて、まったりとした。Hey Judeまでカバーしていた。嬉しい。

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ライブ・アルバム

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全米ナンバー1獲得曲

 ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。曲数はビートルズ、マライア・キャリーに次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライア・キャリーに次ぐ歴代2位である。


ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)1956年 7週間連続1位

アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー(I Want You,I Need You,I Love You)1956年 1週間1位

ハウンド・ドッグ(Hound Dog)1956年 11週間連続1位

冷たくしないで(Don’t Be Cruel)1956年 11週間連続1位(Hound DogのB面)

ラヴ・ミー・テンダー(Love Me Tender)1956年 5週間連続1位

トゥー・マッチ(Too Much)1957年 3週間連続1位

恋にしびれて(All Shook Up)1957年 8週間連続1位

テディ・ベア((Let Me Be Your) Teddy Bear)1957年 7週間連続1位。エルヴィスは「なぜこんな曲が7週もNo.1になったのか」と疑問に思ったという。

監獄ロック(Jailhouse Rock)1957年 7週間連続1位

ドントまずいぜ(Don’t)1957年 5週間連続1位

冷たい女(Hard Headed Woman)1958年 1週間1位

恋の大穴(A Big Hunk o’ Love)1959年 2週間連続1位

本命はお前だ(Stuck On You)1960年 4週間連続1位

イッツ・ナウ・オア・ネバー(It’s Now or Never)1960年 5週間連続1位

今夜はひとりかい?(Are You Lonesome Tonight?)1960年 6週間連続1位

サレンダー(Surrender)1960年 2週間連続1位

グッド・ラック・チャーム(Good Luck Charm)1961年 2週間連続1位

サスピシャス・マインド(Suspicious Minds)1969年 1週間1位


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エルヴィスサンド

ウィキペディアより

エルヴィスサンド(英: Elvis sandwich)はピーナッツバターとバナナとベーコンを具材とするホットサンドイッチ。エルヴィス・プレスリーの母親グラディスが作った料理で、名前の由来ともなっている。エルヴィスの好物として知られ、「おふくろの味」でもあった[1]。エルビスサンドとも表記される[1]。

アメリカ合衆国では1970年代に知名度が高まった。

作り方の例

作り方の例を以下に記す。


1.カットしたバナナをフライパンで焼き目を付ける。

2.ベーコンをフライパンで加熱する。

3.バナナとベーコンをピーナッツバターを塗ったパンでサンドする。

4.サンドしたものをフライパンでバターなどを使って揚げ焼きする。

5.場合によってはブルーベリージャムも加えて良い 。

参考 漫画『鍋に弾丸を受けながら』 4/6Rentaで購入 1巻第5話エルビス・サンドイッチ

YouTube

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クワイエット・ライオット Quiet Riot

 クワイエット・ライオット Quiet Riot

ウィキペディア music


クワイエット・ライオット(英語: Quiet Riot)は、アメリカ合衆国出身のハードロック・バンド。

1980年代に確立するヘヴィメタル・シーンにおいて、最初期に全米チャート1位を獲得した草分け的グループ。そのアルバム『メタル・ヘルス』は、全米だけで600万枚以上の売上を記録した。


略歴

創設期(1973年 - 1979年)

 1973年、ランディ・ローズにより結成。結成時のバンド名は「March 1」。オリジナル・ラインナップはケヴィン・ダブロウ(ボーカル)、ケリー・ガルニ(ベース)、ドリュー・フォーサイス(ドラム)であった。その後、「Little Women」というバンド名に変更するが、その後すぐにクワイエット・ライオットに変更された。なお、クワイエット・ライオットというバンド名はジョン・バースの1960年代の小説『やぎ少年ジャイルズ』とザ・クラッシュの曲名である「White Riot」から来ているといわれている。しかし、1979年に行われたあるラジオのインタビューでは、フォーサイスがイギリスのバンドステイタス・クォーのリチャード・パーフィットと会話したときに彼が言った「Quite Right」をヒントにしたとしている。

 当初、オリジナル・メンバーでアルバム『静かなる暴動』をレコーディングし、1978年に日本でリリースされた。しかし数ヵ月後、セカンド・アルバム『暴動に明日はない』のレコーディング後にベーシストのガルニが脱退。同アルバムがミキシングの段階に入っていた頃にルディ・サーゾが加入し、『暴動に明日はない』を日本で1979年にリリースした。この2枚のアルバムはアメリカでは未発表のままである。

 アメリカでのリリースの失敗後、1979年11月、ランディはバンドを離れてオジー・オズボーンのバンドに加入。1981年にはサーゾもオズボーンのバンドに加入した。しかしダブロウとフォーサイスはバンドを継続する意思でいた。そして1980年から1982年の間、バンド名を「DuBrow」に変更することになる。

再始動全盛期(1982年 - 1989年)

創設者ケヴィン・ダブロウ

しかし1982年3月19日、ランディ・ローズが飛行機墜落事故で死去したのを受け、ダブロウは再びクワイエット・ライオットとして活動することにする。カルロス・カヴァーゾをギタリストに迎え、ドラマーにフアン・クルーシエから勧められたフランキー・バネリを加えて新たなラインナップが完成した。同年9月、アメリカのCBSレコードと契約。1983年の3月11日に、彼らのアメリカでのデビュー作『メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜』が発表された。

 1983年8月27日、セカンド・シングルである「カモン・フィール・ザ・ノイズ」がリリースされた。表題曲はスレイドの1973年のヒット曲のカヴァーで、全米5位の大ヒットとなった。ヘヴィメタル・バンドとしてビルボード・チャートで5位以内にランクインした曲はこれが初めてのことであった。またこの曲のヒットのお陰でアルバムもビルボード・チャートを上昇していき、全米1位を記録した。1983年当時、ヘヴィメタル・バンドがアルバムを全米1位に送り出すことは非常に珍しいことであった。

 1984年7月7日、バンドは前作と同じメンバーで『コンディション・クリティカル』をリリースした。そこそこヒットはしたが、前作のような成功は得られず300万枚の売り上げにとどまった。

 1985年にはベーシストのサーゾが脱退。後任には元ジェフリアのチャック・ライトが迎えられた。次に、バンドは1986年にアルバム『QR3』をリリースしたが、100万枚程の売り上げに留まった。また、ダブロウは普段から不遜な態度をとることが多く、そうした態度に嫌気が差した他のメンバーやレコード会社によってバンドを解雇された。ダブロウ解雇の経緯は、『メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜』のライナーノーツに書かれている。後任には元ラフ・カットのポール・ショーティノが迎えられた。また、ベーシストのチャック・ライトも脱退し、ショーン・ マクナブが後を引き継いだ。やがてバンドはアルバム『新たなる暴動』をリリースしたが、今回もまた商業的に成功したとは言い難い結果となった。やがてバンドは1989年のツアー最終地である日本での公演を最後に活動を停止することになる。活動停止後、バネリはW.A.S.P.のサポート・メンバーとして活動。

1990年代以降(1991年 - 現在)

 その後、1990年代に入ると不仲であったかつてのメンバー達は徐々にコミュニケーションを取れるようになり、ダブロウとカヴァーゾは1991年初頭にパット・アシュビー、元レインボーのボビー・ロンディネリらと「HEAT」(しかし後に再びクワイエット・ライオット名義に変更)を結成し、1993年にアルバム『テリファイド』をリリースした。ドラムはロンディネリに代わりバネリが復帰、ベースはケニー・ヒラリーが担当した。またその同年、ランディ・ローズ時代の曲といくつかの未発表曲を収録したコンピレーション・アルバム『ランディ・ローズ・イヤーズ』をリリース。その際、大部分のボーカルが新録された。しかしヒラリーは1994年にバンドを去った後、1996年6月5日に自らの命を絶ってしまう。これを受け、ライトが再びベーシストとして参加し、バンドはアルバム『ダウン・トゥ・ザ・ボーン』をリリース(1995年)。そしてその翌年にはランディ時代および1990年代に発表した以外の曲をコレクトしたアルバム『Greatest Hits』をリリースした。1997年にはサーゾが再び加わり、ツアーを敢行した。


このツアーは成功には至らず、メンバーが何度か逮捕されたりもした。また怒った一人のファンが、ダブロウがステージでの役割をきちんとこなさなかったとして訴えるという事件も発生した。1999年、新曲および過去の楽曲を幾つか収録したアルバム『アライヴ・アンド・ウェル』をリリース。


バンドは2003年10月に公式に解散し、サーゾは後にディオに加入したが、早くも2004年には再結成し(ラインナップはダブロウ、バネリ、ライト、そしてアレックス・グロッシ)、シンデレラ、ラット、ファイアーハウスらと共にツアーを行った。


2006年にはライトとグロッシが脱退し、トレイシー・ガンズが加入したが、2週間後には音楽性の違いから脱退してしまう。2006年8月、バンドはライトが再びバンドに戻ってきたと発表した。


その後、新しいアルバムのレコーディング中だと発表され、通算11枚目のスタジオ・アルバム『リハブ』が同年中に発表された。しかし、その約1年後、2007年11月25日に、ダブロウの遺体がネバダ州ラスベガスの自宅で見つかったと共同通信によって報じられた。52歳であった。死因はコカインの過剰摂取によるものだった[3]。ダブロウの死去によりバンドは実質上4度目の解散。


2010年にフランキー・バネリを中心に、マーク・ハフ(5150)、チャック・ライト、アレックス・グロッシで再結成。


2012年に入るとハフが脱退し、ライブ・セッションとしてキース・セント・ジョン(バーニング・レイン、モントローズ)が参加。同年にスコット・ヴォコウンが正式に加入した。しかし、翌年2013年に、スコットが諸般の事情で脱退してしまう。


2013年11月22日、フランキー・バネリにより新ボーカリストとしてラヴ/ヘイトのジジー・パールの加入を発表。また同時にバンドはスタジオ入りして新アルバム製作中であると発表。またこの新体制での初ライブは2013年12月31日、アリゾナ州Flagstaffにて行われる事も併せて発表。2014年6月新曲6曲にケヴィン在籍時のライブ音源を加えたアルバム『10』を発表。2016年10月ジジーが年内の活動後脱退することが発表される。後任にショーン・ニコルズが加入。


2017年初頭に12作目となるアルバム『ロード・レイジ』を完成させるが、レコーディング終了直後の2017年3月にショーンが脱退。後任にテレビ番組『アメリカン・アイドル』をきっかけにプロデビューしたジェームズ・ダービンが加入。ボーカルをジェームズが再レコーディングすることになり、『ロード・レイジ』は夏まで発売を延期することになった。


2019年9月、ジェームズ・ダービンが脱退。後任はジジーが約3年ぶりに復帰。ジェームズ脱退前にレコーディングが終わっていた通算13作目『ハリウッド・カウボーイズ』はそのままリリースされる。


2020年8月、昨年から膵臓がんで闘病中のフランキー・バネリが死去[4]。後任は代役サポートを務めていたジョニー・ケリーが昇格し、チャック・ライトを中心に活動を継続[5]。


2021年8月、ソロ活動に専念するためバンドから脱退したチャック・ライト(ベース)に変わり約18年ぶりにルディ・サーゾ(ベース)がバンドへ復帰[6][7]。同年11月には復帰後初となるライブをバージニア州ウッドフォードで開催した[8]。

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スタジオ・アルバム

『静かなる暴動』 - Quiet Riot (1978年) ※日本のみ

『暴動に明日はない』 - Quiet Riot II (1979年) ※日本のみ

『メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜』 - Metal Health (1983年)

『コンディション・クリティカル』 - Condition Critical (1984年)

『QR3』 - QRIII (1986年)

『新たなる暴動』 - QR (1988年)

『テリファイド』 - Terrified (1993年)

『ダウン・トゥ・ザ・ボーン』 - Down to the Bone (1995年)

『アライヴ・アンド・ウェル』 - Alive and Well (1999年)

『ギルティ・プレジャーズ』 - Guilty Pleasures (2001年)

『リハブ』 - Rehab (2006年)

Quiet Riot 10 (2014年)

『ロード・レイジ』 - Road Rage (2017年)

『ハリウッド・カウボーイズ』 - Hollywood Cowboys (2019年)



ライブ・アルバム

『ライヴ・ライオット』 - Live Riot (1984年) ※EP。日本のみ

Extended Versions (2007年) ※パサデナ、ナッシュビルでの1983年録音

『ライヴ・アット・US(アス)フェスティヴァル』 - Live at the US Festival, 1983 (2012年)

『ワン・ナイト・イン・ミラン』 - One Night in Milan (2019年)

コンピレーション・アルバム

Winners Take All (1990年)

『ランディ・ローズ・イヤーズ』 - The Randy Rhoads Years (1993年)

Greatest Hits (1996年)

『スーパー・ヒッツ』 - Super Hits (1999年)

The Collection (2000年)

『ライヴ&レア』 - Live & Rare Volume 1 (2005年)

『プレイリスト:ヴェリー・ベスト・オブ・クワイエット・ライオット』 - Playlist: The Very Best of Quiet Riot (2008年)



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Streets Of Fire

 Streets Of Fire

music ウィキペディア prime

音楽/サウンドトラック

 ダイアン・レイン本人は歌に意欲を見せてはいたのだが、冒頭と終盤の劇中バンド「ファイヤー・インク (Fire Inc.)」のコンサート・シーンでエレン・エイムが歌う2曲「ノーホエア・ファースト」「今夜は青春」は、作者ジム・スタインマンのお気に入りローリー・サージェント(バンド Face to Face のボーカル)とホリー・シャーウッド (Holly Sherwood)とによる吹き替えとなった。

 スタインマンのアルバム『バッド・フォー・グッド』にも参加したプロデューサーのジミー・アイオヴィンが音楽スーパーヴァイザーを担当した(後に『アメリカン・アイドル』でメンターとして出場者の指導も担当した)。ダイアン・レインがステージで歌う2曲に関しては、絶対的に一人の音量ではボーカルの厚みが薄くなるので、2、3人のボーカリストがユニゾンで歌ったものを電子的に合成して作ったと「Inside 'Streets of Fire'」の映像インタビューでジミーが述べている。

 劇中に登場する黒人4人組ドゥーワップバンド、ザ・ソレルズの歌は、ウィンストン・フォードによる吹き替えである。ただし、サントラ・アルバムには、他の歌手が歌っているバージョンが収録されている。その中で最大のヒット曲「あなたを夢みて(I Can Dream About You)」は、作曲者である元エドガー・ウィンター・グループの ダン・ハートマン自らによるバージョン。

「今夜は青春」は、日本のTVドラマ『ヤヌスの鏡』主題歌「今夜はANGEL」として、椎名恵が歌いヒットしている。

「ノーホエア・ファースト」は、1986年に宝塚歌劇団の花組により、バウホールで上演された『グッバイ・ペパーミントナイト!』(安寿ミラ・真矢みき主演)のオープニングで用いられている。

収録曲

1.ノーホエア・ファースト - "Nowhere Fast" : ファイヤー・インク[4] - 6:02

2.ソーサラー - "Sorcerer" : マリリン・マーティン[5] - 5:06

3.ディーパー・アンド・ディーパー - "Deeper and Deeper" : フィクス - 3:45

4.カウントダウン・トゥ・ラヴ - "Countdown to Love" : グレッグ・フィリンゲインズ - 3:00

5.ワン・バッド・スタッド - "One Bad Stud" : ザ・ブラスターズ[6] - 2:28

6.今夜は青春 - "Tonight Is What It Means to Be Young" : ファイヤー・インク[4] - 6:58

7.ネヴァー・ビー・ユー - "Never Be You" : マリア・マッキー[7] - 4:06

8.あなたを夢みて - "I Can Dream About You" : ダン・ハートマン - 4:07

9.ホールド・ザット・スネイク - "Hold That Snake" : ライ・クーダー - 2:36

10.ブルー・シャドウズ - "Blue Shadows" : ザ・ブラスターズ - 3:17

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プロダクション・ノート

劇の約半分は夜の場面だが、本作は夜間に撮影されておらず、ほぼ全てが日中に撮影されている。夜間撮影は日中撮影よりも人件費がかさむため。夜のシーンを日中に撮影するため、20メートル間隔に配置した85本の柱でセットを囲み、自動制御の防水カバーで覆うことでセットの上に巨大な暗幕を広げて「人工の夜」を作り出して撮影された[8]。 『ストリート・オブ・ファイヤー』の構想は『 48時間』の制作中に生まれ、監督のウォルター・ヒルと脚本家のラリー・グロス、プロデューサーのローレンス・ゴードンとジョエル・シルバーが再びタッグを組み、全員が48時間で一緒に仕事をする事となった。1983年1月にユニバーサル社の重役ボブ・レームに脚本を提出し、週末の終わりまでにスタジオ側は製作を承認した。これはヒルが映画製作で受けた最速の承認であり、この決定は『48時間』の興行的成功によるものである。


この映画のタイトルは、ブルース・スプリングスティーンが1978年のアルバム『闇に消えた街』に収録された曲から取られている。この曲の権利をめぐるスプリングスティーンとの交渉により、製作は数回延期された。当初、この曲は映画のサウンドトラックに収録され、映画の最後にエレン・エイムが歌う予定だったが、この曲は他の歌手によって再録音されるとスプリングスティーンに伝えられると、彼はこの曲の使用許可を取り消した。 ジム・スタインマンがオープニングとエンディングの曲を書くために招聘され、「ストリート・オブ・ファイヤー」は「今夜は若かった」に差し替えられた。スタジオは、スプリングスティーンの曲が「落ち込む」曲だったため差し替えたと主張した。


映画のキャストを決めるにあたって、ヒルは比較的無名の若いグループを起用したいと考えた。グロスは「新しいスティーブ・マックイーンを発見するという考えが常にあったんだ。バイクに乗り、肩にカービン銃を担ぎ、主流のアイコンとなる若い白人男性をね」と語っている。トム・コーディ役の候補にはトム・クルーズ、エリック・ロバーツ、パトリック・スウェイジなどがいた。グロスによると、彼らはクルーズを希望しオファーしたが、彼はすでに別の役を引き受けていたという。ヒルは、エディ・マーフィを『48時間』で推薦した同じエージェント(当時の恋人で後に妻となるヒルディ)からマイケル・パレを紹介された。  1983年3月に彼がキャスティングされたとき、パレは『エディとクルーザー』と『アンダーカバー』の2本の映画に出演していたが、これらはまだ公開されていなかった。ヒルにとって、パレは「適切な資質を持っていました。この役にぴったりの俳優は彼しかいませんでした...強靭さと無邪気さの見事な組み合わせです。」パレは自分の役柄について「彼はやって来てすべてを正すことができる人物です。」と語っている。


エレン・エイムの役は28歳の女性として書かれていた。グロスによると、彼らはダリル・ハンナを希望していたが、間に合わなかったという。 ダイアン・レインはこの役のオーディションを受けたのは18歳の時だった。ヒルは、この役には若すぎると感じたため、彼女をキャスティングすることに消極的だった。ヒルはニューヨークでレインと出会い、レインは黒の革のパンツ、黒のメッシュのトップス、ハイヒールのブーツでオーディションを受けた。ヒルは、彼女の「自分をロックンロールスターとして売り出すことに全力を尽くす」姿に驚いた。レインは『ストリート・オブ・ファイヤー』に出演するまでに10本以上の映画に出演していた。彼女は自分の役を「初めて演じた魅力的な役」と表現した。ヒルはこの映画での彼女の演技に非常に感銘を受け、撮影中に彼女のために追加のシーンを書いた。


「ダイアン・レインには非常に興奮していました。なぜなら彼女はオクラホマで撮影されていたフランシス・フォード・コッポラ監督の2本の映画に主演していたからです」とグロス氏は語る。「だから私たちはフランシス・フォード・コッポラ監督が選んだ人物を選ぶという承認を得ていたのです」


エイミー・マディガンは当初コーディの妹レヴァの役をオーディションし、ヒルとシルバーにマッコイ役をやりたいと伝えた。マディガンの記憶によると、マッコイ役は「優秀な兵士で本当に仕事が必要な太り気味の男性が演じるように書かれていた。タフで強い役柄で、女性でも役を書き直さずに演じることができた」という。ヒルはそのアイデアを気に入り、彼女をキャスティングした。


ウィレム・デフォーは、ちょうど『ラブレス』 (1981年)でデフォーを監督したばかりのキャスリン・ビグローによって推薦された。ビグローは当時ヒルの協力者であり友人でもあったデヴィッド・ガイラーと交際していた。グロスは後に、デフォーは「この映画の最高の部分だったかもしれない」と思ったと語った。


撮影

撮影は1983年4月にシカゴで始まり、その後ロサンゼルスに移動して45日間、最後にウィルミントンの石鹸工場で2週間撮影され、ユニバーサルスタジオで追加撮影が行われた。撮影は1983年8月18日に終了した。シカゴでの10日間の撮影はすべて夜間の屋外撮影で、ロケ地には地下鉄の高架路線のプラットフォームやロウワー・ワッカー・ドライブの奥などが含まれていた。ヒルにとって、地下鉄とその外観は映画の世界にとって非常に重要であり、車とオートバイと並ぶ3つの交通手段のうちの1つを表していた。


シカゴでの撮影中、製作陣は雨、雹、雪、そしてその3つが重なる悪天候に悩まされた。地下鉄のシーンはシカゴの多くの場所で撮影され、その中にはラサール・ストリート(ブルーライン)、レイク・ストリート(グリーンライン)、シェリダン・ロード(レッドライン、パープルライン)、ベルモント・アベニュー(レッドライン、ブラウンライン、パープルライン)などがある。ダメン・アベニュー駅(ブルーライン、ダメン・アベニュー、ノース・アベニュー、ミルウォーキー・アベニュー)も使用された。


続編の可能性

『ストリート・オブ・ファイヤー』は、 『トム・コーディの冒険』と題された計画された三部作の最初の作品となる予定で、ヒルは2つの続編に『遠い街』と『コーディの帰還』という仮題を付けていた。『ストリート・オブ・ファイヤー』の脚本は、『ストリート・オブ・ファイヤー』の後に『トム・コーディの冒険』の第2巻『長い夜』が続くという予想で締めくくられていた。


パレは後にこう回想している。


彼らは、これは三部作になるだろうと私に告げました。結局、ストリート・オブ・ファイヤーを作った人たちは全員ユニバーサル・スタジオを去り、20世紀フォックスに移りました。この作品はユニバーサルで作られたので、彼らが物語の権利を持っていました。だから、それは残されたのです。ジョエル・シルバーから、続編は雪の中を舞台にし、次の作品は砂漠を舞台にすると聞きました。


しかし、映画の興行成績の失敗により、プロジェクトは終了した。映画公開直後のインタビューで、パレは「みんなが気に入ってくれたのに、突然気に入らなくなった。続編を作るべきかどうか、すでに心配していた」と語っている。


地獄への道

2008年には『ロード・トゥ・ヘル』という非公式の続編が制作され、アルバート・ピュンが監督し、パレがトム・コーディ、デボラ・ヴァン・ヴァルケンバーグが妹のレヴァ・コーディを演じている。

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Road to Hell 

ウィキペディア英語版  公式サイト(アーカイブ

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『ロード・トゥ・ヘル』は、アルバート・ピュン監督による2008年のアクションファンタジー映画である。ウォルター・ヒルの『ストリート・オブ・ファイヤー』にインスピレーションを受け、同年6月にロサンゼルスで撮影が開始された。ピュンによると、 『ロード・トゥ・ヘル』のきっかけは、彼とパレがスペインの映画祭に参加した時だったという。 [ 6 ]


2025年4月5日土曜日

MC5

 

MC5

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MC5 - トピック YouTube 検索結果

MC5(エム・シー・ファイヴ)は、1960年代半ばから1970年代前半にかけて、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト市を拠点に活躍したロックバンド。結成はミシガン州のリンカーン・パーク。

経歴

共にR&Bファンで在り十代の頃よりの親友であったウェイン・クレイマー(リードギター)とフレッド・スミス(リズムギター)は1963年アメリカ合衆国ミシガン州のリンカーン・パークにてバンド活動を開始。

バンドの2枚目のアルバム『Back In The USA』ではチャック・ベリーの「バック・イン・ザ・USA」、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ」をカバーするなど、ベースとなるR&B志向は後の活動でも一貫して保たれている。


 デトロイトにてバンド活動を始め、しばらくした後、イギー・ポップ率いるストゥージズが登場する。MC5とストゥージズは兄弟バンド的な存在となり、過激なパフォーマンスとメッセージで後にパンク・ロックの第一人者と呼ばれる。MC5のメンバーはストゥージズのメンバーと親密な関係にあり、後にデストロイ・オール・モンスターズ(Destroy All Mosters)、ニュー・オーダー(The New Order[2])、ニュー・レース(New Race)等のバンドでも活動を共にした。

 過激なパフォーマンスでも名を轟かせた。PAシステムが発達していない時期に何台ものアンプを使い爆音を響かせたことは有名である。当時では有り得ないステージ上の派手な衣装も印象的である。フレッド・スミスはスペースマン、ウェイン・クレーマーは顔を金色に塗り、ロブ・タイナーは巨大なアフロで登場する様であった。'60年代にすでに過激な衣装で登場していた先駆者であったためか、デニス・トンプソンは後の派手な衣装で有名になったバンドをかなり皮肉っており、特にキッスを「Fuck KISS」(キッスはしょうもない)と罵っている[要出典]。

 また『Kick Out The Jams』の冒頭で聞けるように、卑語である「マザーファッカー」をステージ上で絶叫したりしていた。観客の熱狂も比類なきものであったといわれた。

 マネージャーのシンクレアはホワイトパンサー党の創設者として知られており、政治的姿勢も明確にし、ヒッピーのブームに浮かれる世情と真っ向から対立した。反政治的(反体制的?)な活動をしていたMC5は、1968年8月25日のシカゴのリンカーン・パークで行われた“Festival of Life” において、悪名高いバンドとして警察からコンサートを中止させられそうになった。コンサートはそのまま続行されたが、終了後シカゴより逃げるようにデトロイトに帰ったという。当時のMC5は危険なバンドとしてFBIにもマークをされていたといわれる[要出典]。


 また子供に悪影響を及ぼす等の理由によりしばしば、レコード店より販売の拒否、またはレコードの撤去をされたという事実もある。MC5は当時のデトロイトの大衆紙の1ページ全面で大々的に大手ハドソン・デパートを皮肉り 「KICK OUT OF THE JAMS, MOTHERFUCKER! and kick in door if the store won't sell you the album FUCK HUDSON'S!」とレコードレーベルのエレクトラ・レコードのロゴマークと共に書き込んだ。激怒したハドソン側がエレクトラのレコードを全て撤去、販売を中止したという事件もある。多大な被害を受けたのは所属レコード会社・エレクトラであった[3]。指摘された「~ MOTHERFUCKER!~」の一節を差し替えた改訂版が米国国内盤として1980年代以降しばらく流通した。日本国内LP盤は1980年代の廉価シリーズでの再発売も初回音源テープを使用した。


 1972年に解散したが、2002年に再結成。再結成後は死去した二人のメンバーを除いた3人のラストネームのイニシャルを取りDTK/MC5(Michel Davis, Dennis Thompson, Wayne Kramer)という名前で活動している[4]。ボーカルにはその時々に、マッドハニーのマーク・アームや、元ガンズ・アンド・ローゼズのギルビー・クラーク、ベルレイズのリサ・ケカウラ等をゲストボーカルに呼んでいる。また、同年USA VH1のTVプログラム「MC5: Sonic Revolution 2004」でも放送されたように、現在はメンバーはバンド活動の他にプロデューサー活動も行っている。

2024年4月21日、米国・Rock & Roll Hall Of Fameより、2024年度『ロックの殿堂 ミュージカル・エクセレンス・アワード』に選出された[5]。

2024年5月8日、トンプソンが心臓発作で死去、享年75歳。これにより事実上バンドは終了した。

2024年10月18日、かつて『We Are All MC5』というタイトルだったアルバム『Heavy Lifting』がリリースされた。

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ディスコグラフィー

Kick Out The Jams (Elektra) 1969年 ライヴ盤 music 

Back In The USA (Atlantic) 1970年 music

High Time (Atlantic) 1971年 music

活動中発表されたオリジナル・アルバムは以上3作のみ。

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