2025年1月31日金曜日

amazon music の使い方

 amazon music の使い方

◎好きな楽曲を、好きな曲順で再生できるAmazon Music Prime(アマゾンミュージックプライム)プレイリストのオンデマンド再生の楽しみ方

 サイト



Myプレミアム・プレイリストのポイント

Myプレミアム・プレイリストに15~50曲を追加すると、自分の選んだ曲を好きな曲順で聴くことができます

曲順の並べ替えも可能です

オンデマンド再生できるMyプレミアム・プレイリストは2つまで作成でき、合計100曲まで選ぶことができます

ダウンロードして、オフライン再生することも可能です

※本機能は、Amazon Musicモバイルアプリでのみお楽しみいただけます。その際、Amazon Musicアプリを最新バージョン(23.13.0以上)にアップデートいただく必要があります。アップデート方法はこちらを参照ください。


※最低15曲(最大50曲)を追加することで、オンデマンド再生可能となります。

※2つの「Myプレミアム・プレイリスト」をオンデマンド再生にすることができ「Myプレミアム・プレイリスト」が3つ以上ある場合は7日ごとにオンデマンド再生するプレイリストを切り替えることができます。



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◎Amazonミュージックの使い方と3つの種類!基本の再生方法や楽しみ方を解説

サイト クラシル比較より 

 Amazonが提供する音楽配信サービスの「Amazonミュージック」。複数の種類や機能があり「気になっているけど使い方が分からない」という方もいるのではないでしょうか。本記事ではiPhoneとアンドロイドでのプレイリスト作成方法や楽曲をダウンロードしてオフライン再生する方法など、使い方を徹底解説します。


※僕は主にPCで使っている。

目次

1.Amazonミュージックとは?

2.Amazonミュージックの3つの種類と使い方

 ・無料で利用可能!Amazon Music Free

 ・プライム特典!Amazon Music Prime

 ・有料サブスク!Amazon Music Unlimited

3.Amazonミュージックの聴き方

 1.スマホの場合

 2.PCの場合

4.Amazonミュージックの活用法の基本

 1.プレイリストを活用する

 2.再生方法の違いを知る

 3.アレクサを活用して楽しむ

5.Amazonミュージックの使い方をマスターして使いこなそう!


1.Amazonミュージックとは?

Amazonミュージックとは、スマホやタブレット、PCなどのデバイスで利用できる音楽配信サービスです。新作から名盤まで国内外問わずさまざまなジャンルの音楽が1億曲以上提供されています。楽曲以外に追加料金なしで聴けるポッドキャストも配信されており、音楽とカルチャーをたっぷり楽しめるサービスです。お気に入りの音楽を見つけたりお部屋の中でBGMとして流したりなど、さまざまな使い方ができますよ。


2.Amazonミュージックの3つの種類と使い方

 Amazonミュージックには「Amazon Music Free」「Amazon Music Prime」「Amazon Music Unlimited」という3つの種類があり、それぞれ料金や使える機能が異なります。どのような使い方ができるのか、ひとつずつ見ていきましょう。


1.無料で利用可能!Amazon Music Free

 Amazon Music Freeは、人気のプレイリストやステーションなど数千万曲の楽曲を広告付きで楽しめるサービスです。Amazonアカウントがあれば無料で利用でき、支払い方法の登録は不要となっています。選曲や自分でのプレイリストの作成はできず、用意されているプレイリストやステーションを選ぶと曲が自動的にシャッフル再生されるのが特徴。どれだけ聴いても無料なので、BGMとしてかけ流す使い方にぴったりですよ。


2.プライム特典!Amazon Music Prime

 Amazonプライム会員の特典として利用できるAmazon Music Prime。1億曲の楽曲が広告なしで聴き放題になり、新番組を含む多数のポッドキャストも楽しめます。ただし、曲を選んで再生できる厳選プレイリストを除き基本的に選曲はできません。Amazon Music Freeと同じく楽曲はシャッフル再生ですが、対象の曲数が多く広告が付かない点が異なります。プライム会員になるには会費がかかるため、会員特典を十分に活用できるか確認した上で入会を検討してみてくださいね。

※僕は今、ここAmazon Music Prime。

3.有料サブスク!Amazon Music Unlimited

 Amazon Music Unlimitedは、1億曲の楽曲を自由に楽しめる有料の音楽サブスクリプションサービスです。広告もなく、スキップ制限もなしで好きな楽曲を選んで聴けます。プレイリストのカスタマイズやオフライン再生ができ、自宅でも外出先でもニーズに合わせた使い方ができますよ。また、HDとUltra HDの高音質ストリーミング再生にも対応しています。音楽にこだわりのある方や自分の好きな音楽を自由に楽しみたい方にぴったりのサービスです。




3.Amazonミュージックの聴き方

Amazonミュージックではどうやって楽曲を聴くのか、スマホとPCの場合の聴き方をそれぞれ解説します。いずれも簡単にできるので、手持ちのデバイスで実際に試してみてくださいね。


1.スマホの場合

スマホでAmazonミュージックを聴く場合は専用アプリを使うのがおすすめです。ブラウザからも再生できますが、スマホで他の操作をしていても並行しながら音楽が聴けるので、より快適に使えますよ。ここではアプリで聴く方法をご紹介します。


Amazonミュージックアプリを使って聴く

ブラウザからAmazonミュージックの登録が済んだら、以下の手順でAmazonミュージックアプリを使って音楽を聴けます。


1.App StoreまたはGoogle PlayからAmazonミュージックアプリをインストールする

2.アプリを開いてAmazonアカウントでサインインする

3.「見つける」タブをタップして聴きたい楽曲を探す

4.聴きたい楽曲を選んで再生する


 ほかにもアプリの「ホーム」タブに表示されるおすすめの曲を聴いたり、お気に入り登録した曲や自分で作成したプレイリストを「ライブラリ」タブから聴いたりするといった使い方ができますよ。


2.PCの場合

 PCの場合もブラウザまたは専用アプリからAmazonミュージックを再生できます。それぞれでの聴き方を解説するので、ご自身にとって使いやすい方を選んでみてください。


①PC版のAmazonミュージックアプリで聴く

PC版のアプリを使う場合は以下の方法で音楽を聴けます。

1.Amazonサイトからデスクトップ版Amazonミュージックアプリをダウンロードする

2.アプリを立ち上げてAmazonアカウントでサインインする

3.検索窓から聴きたい楽曲を探す

4.聴きたい楽曲を選んで再生する


デスクトップ版のAmazonミュージックアプリは、App StoreやGoogle PlayではなくAmazonサイトで0円の商品として販売されています。Mac版またはWindows版を選んでカートに入れ、ダウンロードを進めてくださいね。


※ダウンロードするもMYミックスはアップグレイドを要求され使えず、他は使えた。


②ブラウザで音楽を聴く

ブラウザでAmazonミュージックを聴く場合は以下の手順で操作しましょう。


1.Amazonミュージックのサイトを開く

2.右上の「ウェブプレーヤーを開く」または中央の「今すぐ聴く」をクリックする

3.検索窓から聴きたい楽曲を探す

4.聴きたい楽曲を選んで再生する

Amazonミュージックのサイトをブックマーク登録しておくと、聴きたいときにすぐ開けて便利です。ただし、ブラウザを閉じるとAmazonミュージックも再生終了してしまうので、使いづらく感じる場合はアプリ版の使用をおすすめします。


 ※検索方法の入力が特徴的で慣れないと不便を感じる。


4.Amazonミュージックの活用法の基本

Amazonミュージックは音楽をただ再生する以外にもさまざまな使い方ができます。知っておくとAmazonミュージックをさらに楽しめますよ。基本の活用法は、「プレイリストを活用する」「再生方法の違いを知る」「アレクサを活用して楽しむ」の3つです。それぞれ順番に解説します。


1.プレイリストを活用する

 有料版のAmazonミュージックではオリジナルのプレイリストを作成できます。お気に入りの曲をまとめたりシーン別に聴きたいプレイリストを作ったりなど、Amazonミュージック内にある曲を自由に組み合わせて再生できるのがメリットです。好きなアーティストの曲を追加するのはもちろん、ランダム再生で気に入った曲を見つけたときに追加しておけば後から聴き返せるのも便利ですよ。


また、Amazonが「My BGM」や「My ディスカバリー」などの自分に合ったプレイリストを自動で作成してくれるので、オリジナルのプレイリストと併せて活用してみてください。


・iPhone(iOS)でプレイリスト作成する

iPhoneではAmazonミュージックアプリから以下の方法でプレイリストを作成できますよ。


1.プレイリストに追加したい曲の「・・・」メニューをタップする

2.「プレイリストに追加」をタップする

3.「新しいプレイリストを作成」をタップしてプレイリスト名を入力し保存する

 曲の保存先となるプレイリストがすでに作成済みの場合は、保存したいプレイリストを選ぶだけで保存できます。「プレイリストを公開する」設定にするとほかのユーザーも聴ける状態になるので、自分専用にしたい方は非公開の状態にしておきましょう。


・アンドロイドでプレイリストを作成する

アンドロイドでプレイリストを作成する場合も手順はiPhoneと同じです。Amazonミュージックアプリから以下の方法で作成できます。


1.プレイリストに追加したい曲の「・・・」メニューをタップする

2.「プレイリストに追加」をタップする

3.「新しいプレイリストを作成」をタップしてプレイリスト名を入力し保存する

まずは追加したい曲を探して実際にプレイリストを作成してみてくださいね。


2.再生方法の違いを知る

 Amazonミュージックで音楽を再生する方法は、大きく分けると「ステーション再生」「シャッフル再生」「オンデマンド再生」「オフライン再生」の4つがあります。違いを知って用途に合わせて使い分けましょう。Amazonミュージックの種類によっては一部対応していない場合もあるので、使いたい再生方法に合わせて種類を選ぶのがおすすめです。


・ステーション再生

 Amazonミュージックには、ジャンルやテーマに沿った楽曲を自動で選んで再生し続けてくれる「ステーション」機能があります。種類豊富なステーションの中から自分の好みのものを選ぶだけで、1曲ごとに指定しなくても趣味に合った楽曲を聴けるという便利な機能です。


 自分がよく聴いている音楽をもとにした「お客様におすすめのステーション」やAmazonミュージック全体でよく聴かれている曲を集めた「注目のステーション」もあり、聴きたい曲が思い浮かばないときにも活用できます。ステーション再生は無料プランを含むすべてのAmazonミュージックで利用可能です。


・シャッフル再生

「シャッフル再生」は、Amazonミュージックにあるプレイリストやステーションを選ぶと楽曲がランダムな順番で再生される方法です。具体的な曲にはこだわらず同一ジャンルの曲を聴きたいときや、BGMとして流したいときに便利ですね。


 全種類のAmazonミュージックで使えますが、無料のAmazon Music Freeとプライム会員特典のAmazon Music Primeでは、前提として基本的な再生方法がシャッフル再生となっているのが特徴です。シャッフル再生で十分と感じられる方はこれらの種類を選ぶとよいかもしれませんね。


・オンデマンド再生

 聴きたい楽曲を自由に選んで再生できる「オンデマンド再生」。具体的に聴きたい曲があるときや、お気に入りの曲のみを聴きたいときに最適な機能です。


有料サブスクのAmazon Music Unlimitedで利用でき、Amazon Music PrimeではAmazonが自分向けに自動でセレクトした「厳選プレイリスト」のみオンデマンド再生ができます。なお、無料のAmazon Music Freeでは利用できません。自由にオンデマンド再生を利用したい場合はAmazon Music Unlimitedに入会する必要があります。


・音楽をダウンロードしてオフライン再生

 「オフライン再生」は、その名の通り楽曲をダウンロードしてオフラインで再生する方法です。一度ダウンロードしておけば、その後はWi-Fi環境でなくても通信量を気にせず音楽を楽しめるのがメリット。どこにいても好きなだけ聴けるのがうれしいですね。


 Amazon Music Unlimitedではさまざまな楽曲やアルバム、プレイリストをオフライン再生でき、高音質のHDやUltra HDでのダウンロードも可能です。Amazon Music Primeは「厳選プレイリスト」のみオフライン再生に対応しています。Amazon Music Freeは非対応のため、曲を再生するたびに通信が必要です。


3.アレクサを活用して楽しむ

 Amazonミュージックは、同じくAmazonが提供する音声アシスタントの「アレクサ」と連携できるのが特徴です。スマホやPCから楽曲を選んで再生する以外にも楽しみ方の幅が広がりますよ。具体的にどのような活用法があるのか見ていきましょう。


・車のドライブミュージックに!カーモードで

 Amazonミュージックアプリには運転中に設定できる「カーモード」の機能があります。起動すると操作画面がシンプルになり、プリセットに追加したアルバムやプレイリストが自動的に再生されるのが特徴です。さらにアレクサを使用すれば音声で呼びかけるだけで楽曲再生ができ、カーモード中の操作がより簡単になります。アプリ内のAlexaボタンを押してマイクへのアクセスを許可するだけで使えるので、ドライブ時に活用してみてはいかがでしょうか。


(※運転中のアプリ操作は事故につながる危険性があります。アプリ操作は運転する前に安全な場所で行い、運転中は決して行わないでください。)


・Fire TVを使ってテレビで聴く

 AmazonミュージックはAmazonデバイスの「Fire TV」での再生にも対応しています。Fire TVは自宅のテレビやモニターに挿してインターネットに接続すると、テレビでさまざまなインターネットコンテンツを楽しめるようになる商品です。Fire TVの音声認識リモコンのボタンを押すとアレクサが起動するので、「音楽をかけて」と話しかけるだけでテレビでAmazonミュージックを再生できますよ。テレビの高音質を利用して部屋中に音楽を流したいときに便利です。


・家事の最中にも!Amazon Echoシリーズで

 Amazonが販売しているスマートスピーカーの「Amazon Echo」も、「アレクサ」と話しかけて聴きたい音楽のジャンルやアーティスト名を指定するだけで簡単にAmazonミュージックの再生が可能です。スマホを操作しなくても再生できるので、手を空けられない家事の最中にも便利ですね。再生中に気に入った曲があればアレクサに曲名を聞いたりプレイリストの追加を指定したりもでき、快適なミュージックライフをサポートしてくれますよ。


5.Amazonミュージックの使い方をマスターして使いこなそう!

 Amazonミュージックにはさまざまな再生方法や活用方法があり、どのように音楽を楽しみたいかに合わせて利用できます。本記事でご紹介した使い方も参考に、自身に合った種類のAmazonミュージックを選んでフル活用してみてくださいね。

※本記事に掲載している情報は、記事更新時のものになります。

※各種セールは必ず開催があるとは限りません。本記事記載のセール・キャンペーンは予告なく終了となる場合があります。

※売上の一部がクラシルに還元されることがあります。





マンハッタン・トランスファー

 マンハッタン・トランスファー




ウィキペディアより

 マンハッタン・トランスファー(The Manhattan Transfer)は、アメリカ合衆国のジャズ・コーラス・グループ。男女各2人による4人編成。卓越したボーカル技術とハーモニーを持ちながらも親しみやすい音楽性でポップ分野でも人気を博している。


1969年に結成されるが、1971年にいったん解散する[1]。


 1973年にティム・ハウザーをリーダーとして、アラン・ポール、ジャニス・シーゲル、ローレル・マッセーの4人で再結成される[1]。ベット・ミドラーに認められ、1975年にデビュー・シングル「Operator」を発表する。1976年発売のカバー曲「タキシード・ジャンクション(英語版)」で注目を集め、幅広いレパートリーと卓越したハーモニーとで人気を博する[1]。


 1979年に交通事故で大けがをしたマッセーに代わって、シェリル・ベンティーンが正式加入した[1]。同年、テレビ番組『トワイライト・ゾーン』の同名テーマ曲をジェイ・グレイドンのプロデュースでディスコ調にカバーし[2]、これがヒットしたことで広く注目を浴びるようになる。


 1981年にはウェザー・リポートのカバー曲「バードランド」で第23回グラミー賞の最優秀ジャズ・フュージョン・ボーカル賞とボーカル編曲賞を受賞する。なお、1982年にはライブでウェザー・リポートとの共演も行っている[1]。


 1982年には「ボーイ・フロム・N.Y. City」がポップチャートでも大ヒットし、第24回グラミー賞の最優秀ジャズ・ボーカル賞など3部門で受賞した。その後も1984年、1986年、1989年、1992年にグラミーの主要な賞を獲得している。


 日本では1977年に伊勢丹のCMソングとして、「女王陛下のお買い物」(作詞:伊藤アキラ、作曲:樋口康雄)をSKIP ISHII PRODUCTION (ハリウッド)が制作し、これに続き1980年代前半にサントリーブランデーのCMに出演した。頻繁に来日公演を行っており、特に2000年からは毎年来日している。来日公演のライブ盤や日本限定盤もいくつかリリースしている。


ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

1.『ジューキン! マンハッタン・トランスファー・デビュー』 - Jukin' (1971年、Capitol)

2.『マンハッタン・トランスファー・デビュー!』 - The Manhattan Transfer (1975年、Atlantic)

3.『華麗なる開花』 - Coming Out (1976年、Atlantic)

4.『ニューヨーク・エッセンス』 - Pastiche (1978年、Atlantic)

5.『エクステンションズ』 - Extensions (1979年、Atlantic)

 music




6.『モダン・パラダイス』 - Mecca for Moderns (1981年、Atlantic)

7.『アメリカン・ポップ』 - Bodies and Souls (1983年、Atlantic)

8.『バップ・ドゥー・ワップ』 - Bop Doo-Wop (1984年、Atlantic)

9.『ヴォーカリーズ』 - Vocalese (1985年、Atlantic)

10.『ブラジル』 - Brasil (1987年、Atlantic)

11.『オフビート・アベニュー』 - The Offbeat of Avenues (1991年、Columbia) 

  ※『オフ・ビート・アヴェニュー』の表記もある

12.『ザ・クリスマス・アルバム』 - The Christmas Album (1992年、Columbia)

The Manhattan Transfer Meets Tubby the Tuba (1994年、Summit)

13.『カヴァーズ』 - Tonin' (1995年、Atlantic)

14.『スウィング』 - Swing (1997年、Atlantic)

15.『スピリット・オブ・セントルイス (サッチモに捧ぐ)』 - The Spirit of St. Louis (2000年、Atlantic)

16.『ヴァイブレート』 - Vibrate (2004年、Telarc)

17.『アカペラ・クリスマス』 - An Acapella Christmas (2005年、King)

18.『ザ・シンフォニー・セッションズ』 - The Symphony Sessions (2006年、Rhino)

19.『チック・コリア ソングブック』 - The Chick Corea Songbook (2009年、Four Quarters Entertainment)

20.『ザ・ジャンクション』 - The Junction (2018年、BMG)

ライブ・アルバム

21.『ライヴ』 - Live (1978年、Atlantic)

22.『ヴォーカリーズ・ライヴ』 - Live (1987年、Atlantic)

23.『マン–トラ! マンハッタン・トランスファー・ライヴ・イン・トーキョー』 - Man-Tora! Live in Tokyo (1996年、East West Japan)[7]

24.『ライヴ・イン・ジャパン!〜クドゥント・ビー・ホッター』 - Couldn't Be Hotter (2003年、Telarc)

25.The Summit - Live On Soundstage (2018年、BMG) ※with TAKE 6

コンピレーション・アルバム

26.『ベスト・オブ・マンハッタントランスファー』 - The Best of The Manhattan Transfer (1981年、Atlantic)

27.『アンソロジー』 - Anthology: Down in Birdland (1992年、Atlantic)

28.『ベリー・ベスト・オブ・マンハッタン・トランスファー』 - The Very Best of the Manhattan Transfer (1994年、Atlantic)

30.Boy from New York City and Other Hits (1997年、Flashback)

31.『ザ・ディフィニティヴ・ポップ・コレクション』 - The Definitive Pop Collection (2006年、Rhino)






2025年1月30日木曜日

エリック・クラプトン

 エリック・クラプトン

ウィキペディアより
エリック・パトリック・クラプトン(Eric Patrick Clapton, CBE、1945年3月30日 - )は、イギリスのシンガーソングライター、ギタリスト[2]。史上最も重要で影響力のあるギタリストの1人とされる。クラプトンはローリング・ストーン誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位、ギブソンの「史上最高のギタリストトップ50」で4位にランクされた。2009年にはタイム誌の「エレクトリックギタープレーヤーベスト10」で5位に選ばれた。

 さまざまな地元のバンドで演奏した後、クラプトンは1963年にヤードバーズのギタリスト、トップ・トーパムに代わって加入した。ヤードバーズがブルースロックからラジオ向けのポップ指向を目指したことに不満を抱いたクラプトンは1965年に脱退、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入した。1966年にメイオールを脱退、彼はドラマーのジンジャー・ベイカー、ベーシストのジャック・ブルースとパワートリオのクリームを結成、持続的なブルースの即興演奏と「芸術的でブルースベースのサイケデリックポップ」を演奏した。1968年11月にクリームが解散した後、彼はベイカー、スティーヴ・ウィンウッド、リック・グレッチとブルースロックバンドのブラインド・フェイスを結成、1枚のアルバムを発表し1度のツアーを行った。ブラインド・フェイスは1970年に解散し、クラプトンはソロキャリアに乗り出した。

ソロキャリアに加えて、クラプトンはデラニー&ボニーデレク・アンド・ザ・ドミノスとも共演し、代表曲の1つである「いとしのレイラ」をレコーディングした。その後数十年にわたって多くのソロアルバムと曲を発表し、高い評価を得た。その中には、1974年にリリースしたボブ・マーリーのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(レゲエが一般マーケットに受け入れられるきっかけとなった)、カントリー・ミュージックで満たされた『スローハンド』(1977)、ポップロックの『オーガスト』(1986)などが含まれる。息子コナーが1991年に事故死した後、クラプトンは悲しみを歌い上げた「ティアーズ・イン・ヘヴン」を『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』で発表し、1996年にはリズム&ブルースのクロスオーバー、「チェンジ・ザ・ワールド」でトップ40のヒットを記録した。1998年には「マイ・ファーザーズ・アイズ」を発表し、グラミー賞を受賞する。1999年以来、彼は伝統的なブルースとブルースロックのアルバムを録音し、定期的にクロスロード・ギター・フェスティバルを主催してきた。最新のアルバムは2018年の『ハッピー・クリスマス』である。

クラプトンはグラミー賞を18回受賞し、ブリット・アワード功労賞も受賞している。2004年に彼は音楽への貢献で、バッキンガム宮殿で大英帝国勲章を授与された。彼は英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つのアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞している。また、彼はソロアーティスト、ヤードバーズ、クリームと3度ロックの殿堂入りした唯一のアーティストである。

クラプトンはソロアーティストとして世界中で2億8000万枚以上のレコードを売り上げ、史上最も売れたミュージシャンの1人となった。かつてアルコール依存症及び麻薬中毒の治療を受けたクラプトンは1998年、薬物乱用者の治療を目的とする医療施設、クロスロード・センターをアンティグア島に設立した。

音楽経歴

ヤードバーズとブルースブレイカーズ

→詳細は「ヤードバーズ」および「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ」を参照


 1963年10月、クラプトンはブルースの影響を受けたロックンロールバンドであるヤードバーズに参加し、1965年3月まで共に活動した。シカゴ・ブルースと、バディ・ガイ、フレディ・キング、B.B.キングなどの主要なブルースギタリストの影響を統合したクラプトンは、独特のスタイルを作り上げ、急速にイギリスの音楽シーンで最も話題のギタリストの1人になった[23]。バンドは最初にチェス/チェッカー/ヴィージェイのブルースナンバーを演奏し、リッチモンドのクロウダディ・クラブでローリング・ストーンズの後釜として出演するようになると、大勢の熱狂的なファンを魅了し始めた。彼らはアメリカのブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIと一緒にイギリスツアーを行い、1963年12月に録音されたライブアルバム『サニー・ボーイ・ウィリアムソン&ザ・ヤードバーズ』は1966年にリリースされた。


 1964年にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで初めて出演したクラプトンは、それ以来、200回以上同会場で演奏してきた[24]。
ヤードバーズのリズムギタリスト、クリス・ドレヤは、クラプトンがコンサート中にギターの弦を切ったときはいつでも、ステージにとどまって交換していたことを思い出す。イギリスの聴衆はいわゆる「スロー・ハンドクラップ(遅い手拍子)」をすることによってコンサートの中断を待っていた。クラプトンのニックネーム「スローハンド」は、ジョルジオ・ゴメルスキーが言った、クラプトンが弦の交換のために演奏を停止しているときに続いた観客の遅い手拍子の駄洒落に由来する[25]。1964年12月、クラプトンはヤードバーズと共にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールに初登場した。それ以来、クラプトンは同ホールで200回以上演奏し、会場での演奏は「僕の居間で演奏する」ようなものだと述べている。

 1965年3月、ヤードバーズはソングライターのグレアム・グールドマンが書いた最初の大ヒット曲「フォー・ユア・ラヴ」を発表した。グールドマンは、ハーマンズ・ハーミッツやホリーズのヒット曲も作曲しており、後に10ccのメンバーとして成功を収めた。ヤードバーズは「フォー・ユア・ラヴ」の成功もあって、ポップ志向のサウンドに移行することを選択した。これは、商業的な成功ではなくブルースに専念していたクラプトンの苛立ちに大きく影響することとなる。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がリリースされた日にヤードバーズを脱退した。バンドは最も熟練したメンバーを失うこととなった。クラプトンは自分の代わりとしてジミー・ペイジを提案したが、ペイジはこの推薦を断り、ジェフ・ベックを推薦した。ペイジは後にヤードバーズに加わり、ベックとしばらくの間一緒に活動したが、ベック、ペイジ、クラプトンは一緒にグループで活動することは無かった。彼らが初めて共にステージに上がったのは1983年にロイヤル・アルバート・ホールで行われたARMS(Action into Research for Multiple Sclerosis:多発性硬化症の研究を促す行動)チャリティーコンサートでのことであった。

 クラプトンは1965年4月にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入したが、数か月後に脱退した。6月、クラプトンはペイジと共にジャムに招待され、多くの曲を録音した。後にそれはザ・イミディエイト・オールスターズのクレジットでリリースされた。1965年の夏、彼は旧友のベン・パーマーを含むグランドと呼ばれるバンドと共にギリシャでのツアーに向かった。ギリシャのバンド、ザ・ジュニアーズは悲劇的な自動車事故でベーシストのサーノス・ソウジオウルが死亡し、ギタリストのアレコス・カラカンタスが負傷したが、生き残ったメンバーは1965年10月17日にクラプトンと共に記念のショーを開催した。クラプトンは10月にブルースブレイカーズに再加入し、ジャック・ブルースと共にステージに立った[31][32][注 1]。1966年3月、ブルースブレイカーズのメンバーである間にクラプトンはブルースやスティーヴ・ウィンウッドとサイドプロジェクトで協力し、エリック・クラプトン・アンド・ザ・パワーハウスの名前で何曲か録音した。2度目のブルースブレイカーズでの活動期間中、クラプトンはクラブサーキットで最高のブルースギタリストとしての評判を得た。アルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』での演奏でクラプトンは世界的に有名になったが、このアルバムは彼が1966年7月にバンドを離れるまでリリースされなかった。

 フェンダー・テレキャスターとVox AC30アンプを1960年のギブソン・レスポール・スタンダードとマーシャルアンプに交換したクラプトンのサウンドと演奏は、有名なスローガン「Clapton is God」に大きな影響を与えた。それは1967年にイズリントン区の壁にスプレーで書かれた物で、その落書きの下で犬が壁に排尿している有名な写真で記録される。クラプトンはそのスローガンに対して恥ずかしいという気持ちを表し、1987年のサウスバンクショーのプロフィールで、「僕は自分が世界で最も偉大なギター奏者であることを決して受け入れなかった。僕は常に世界で最も偉大なギタープレーヤーになりたいと思っていたけど、それは理想であり、理想として受け入れている。」と語っている。

クリーム

→詳細は「クリーム (バンド)」を参照


 クラプトンは1966年7月にブルースブレイカーズを去り、ドラマーのジンジャー・ベイカーに誘われて、かつて共演したベーシストのジャック・ブルースと3人でクリームを結成した。クリームは初期のスーパーグループの一つであった。クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていなかった。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことが無かった。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、ブルースが大部分のリードヴォーカルを担当し、作詞家のピート・ブラウンと一緒に曲の大半を書いた。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターのツイステッド・ホイール・クラブで行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、ウィンザーのナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルであった。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立した。

 1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、アシッドロックを吹き込んだギタリストであるジミ・ヘンドリックスの登場で、彼がライバルであることに気がついた。ヘンドリックスは、フィードバック奏法とエフェクトペダルを使用して新しいサウンドを作り出した。ヘンドリックスは1966年10月1日にセントラル・ロンドン・ポリテクニックで行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「キリング・フロアー」のダブルタイムバージョンを演奏した。クラプトン、ピート・タウンゼント、ローリング・ストーンズやビートルズのメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加した。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼした。


 クラプトンがアメリカを初めて訪れたのは、クリームのツアーでのことであった。1967年3月、クリームはニューヨークのRKOシアターで9回のライブを行った。クラプトンによると、1964年製の彩色されたギブソン・SG - 「サイケデリック・ファンタジー」ザ・フール - は、RKOシアターでデビューした。クラプトンはそのギターを『フレッシュ・クリーム』の後、特に『カラフル・クリーム』で多用し、バンドが解散した1968年まで使用した。「ザ・フール」は世界で最も有名なギターの1つであり、サイケデリックな時代を象徴している。彼らは1967年5月11日から15日までニューヨークで『カラフル・クリーム』を録音した。クリームのレパートリーはハードロック(「アイ・フィール・フリー」)から、ブルースベースの長いインストルメンタルジャム(「スプーンフル」)まで様々だった。『カラフル・クリーム』にはクラプトンの灼熱のギターライン、ブルースの急上昇するボーカルと際立った滑らかなベース、ベイカーのパワフルでポリリズムのジャズの影響を受けたドラムが収められた。一緒に、彼らの才能は影響力のあるパワートリオとしてクリームを確立した。ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』(1967年)のA面1曲目「アー・ユー・ハング・アップ?」とB面1曲目「鼻で記憶している蒸気オルガン音楽」では、クラプトンの声が聞ける。

 28か月でクリームは商業的な成功を収め、数百万枚のレコードを売り上げ、アメリカとヨーロッパでライブを行った。彼らはロックにおける演奏者の役割を再定義し、熟練した楽器演奏と長いジャズスタイルの即興セッションを強調した最初のブルースロックバンドの1つであった。彼らのアメリカにおけるヒットシングルには、「サンシャイン・ラヴ」(1968年、第5位)、「ホワイト・ルーム」(1968年、第6位)、「クロスロード」(1969年、第28位)などがある。「クロスロード」はロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」のライブバージョンである。クリームは当時の最も偉大なグループの1つとして称えられ、ギターの伝説としてのクラプトンの称賛は新たな高みに達したが、スーパーグループは短命であった。ドラッグとアルコールの使用は3人のメンバー間の緊張を高め、ブルースとベイカーの対立は最終的にクリームの解散につながった。バンドの2回目のアメリカツアーに対する非常に批判的なローリング・ストーン誌のレビューは、解散のもう一つの重要な要因であり、それはクラプトンに大きな影響を与えた。クラプトンはまた、ザ・バンドのデビューアルバムである『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の革命的なアメリカーナサウンドが、クリームを去るという決定に影響を与えたと考えている。

 クリームのラストアルバム『グッバイ・クリーム』には1968年10月19日にロサンゼルスのフォーラムで行われたライブが収められ、解散の直後にリリースされた。同作にはクラプトンとジョージ・ハリスンが共作した「バッジ」が収められ、これはシングルでも発売された。クラプトンはヤードバーズ時代にロンドン・パラディアムでビートルズと共演し、そこでハリスンと出会い、二人は親しい友人となった。1968年、クラプトンはビートルズの『ホワイトアルバム』でハリスン作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」に参加、リードギターソロを演奏した。ハリスンのソロデビューアルバム『不思議の壁』はクラプトンが参加した初のハリソンのアルバムである。クラプトンは契約上の制約のため、ハリスンのアルバムではほとんどクレジットされず、またクリームの「バッジ」でハリスンは「ランジェロ・ミステリオーソ」としてクレジットされた。二人はしばしばお互いのライブにゲスト出演し、共に演奏した。2001年にハリスンが死去してから1年後、クラプトンはコンサート・フォー・ジョージの音楽監督を務めた。

 1969年1月、ビートルズはゲット・バック・セッションでメンバー間の緊張感が高まり、ハリスンは数日間グループから離れた。ジョン・レノンはハリスンが戻らなかった場合、クラプトンと一緒にプロジェクトを完了することを提案した。セッションの撮影ディレクターであるマイケル・リンゼイ=ホッグは、後に次のように回想している。「ジョンがクラプトンについて言及したとき、私はそこにいた - しかし、それは起こらなかった。エリックはビートルズになっていただろうか? いいえ。ポールはそこに行きたくなかった。彼は解散を望まなかった。それからジョージは戻ってきたんだクラプトンはビートルズの4人全員と仲が良かった。1968年12月、彼はローリング・ストーンズの『ロックンロール・サーカス』で、この日限りのグループ、ザ・ダーティー・マックの一員としてレノンと共演した。

 クリームは1993年に一時的に再結成し、ロックの殿堂入りの記念ステージで演奏した。2005年5月には完全に再結成し、ロイヤル・アルバート・ホールでの4回のコンサートはチケットが全て完売した。その年の10月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3回のショーを行った。ロンドンでのショーは『リユニオン・ライヴ 05』として2005年後半にCD、LP、DVDでリリースされた。

ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー&フレンズ

→詳細は「ブラインド・フェイス」および「デラニー&ボニー」を参照

 1969年に結成されたクラプトンの次のグループであるブラインド・フェイスは、クリームのドラマーであったジンジャー・ベイカー、トラフィックのスティーヴ・ウィンウッド、ファミリーのリック・グレッチで構成され、アルバムを一枚発表し、アリーナサーキットツアーを1回行った。このスーパーグループは1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで10万人のファンの前にデビューした。彼らはスカンジナビアで何回かのライブを行い、7月にはアメリカツアーを行い、そのチケットは全て完売した。デビューアルバム『スーパー・ジャイアンツ』は8月にリリースされた。アルバムは6曲で構成され、そのうちの1曲はヒット曲「マイ・ウェイ・ホーム」であった。もう1曲「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」はクラプトンのみがクレジットされた初の曲である。アルバムジャケットの写真は銀色の宇宙船を持ったトップレスの少女であったため、アメリカで論争が巻き起こり、バンドの写真に置き換えられた。ブラインド・フェイスは7か月足らずで解散した。

 ブラインド・フェイスの解散後、クラプトンはデラニー&ボニー&フレンズのツアーにメンバーとして参加した。彼はまた、プラスティック・オノ・バンドのメンバーとして1969年9月のトロント・ロックンロール・リバイバルに出演し、その様子はアルバム『平和の祈りをこめて』としてリリースされた。9月30日、クラプトンはレノンのセカンドソロシングル「コールド・ターキー」の録音に参加し、リードギターを演奏した。その年の12月15日、クラプトンはロンドンのライシーアム劇場で開催されたユニセフのチャリティー・コンサート『ピース・フォー・クリスマス』にプラスティック・オノ・スーパーグループのメンバーとして出演して、レノン、ハリスンらと共演した。この時の音源はレノンとヨーコのアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)に収録された。

 デラニー・ブラムレットはクラプトンの歌と作曲を励ました。ブラムレットのバックバンドとセッションプレーヤーのオールスターキャスト(レオン・ラッセルとスティーヴン・スティルスを含む)を使って、クラプトンは初のソロアルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を録音した。デラニー・ブラムレットはクラプトンと6曲を共作し、アルバムのプロデュースも担当した[57]。ボニー・ブラムレットは「レット・イット・レイン」を共作した。このアルバムにはJ・J・ケイルの「アフター・ミッドナイト」も収められたが、アメリカではチャート18位と予想外のヒットとなった。クラプトンはまたデラニー&ボニーのメンバーと共に、1970年春にジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』を録音した。

 この期間中、クラプトンはドクター・ジョン、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、リンゴ・スター、デイブ・メイソンなどのアーティストともレコーディングを行っている。シカゴブルースのアーティスト、ハウリン・ウルフとは『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』を録音した。このセッションには、ウルフのバンドで長年ギタリストを務めるヒューバート・サムリンとローリング・ストーンズのメンバー、ウィンウッド、スターも参加した。スーパースターのラインナップにもかかわらず、批評家のカブ・コダは次のように述べている。「普段自分がアイドル視しているアーティストとの共演を歓迎しているエリック・クラプトンでさえ、インタビューではこのアルバムを繰り返し批判している。それ自体がボリュームを語っている」この時期の他の有名な録音には、スティーヴン・スティルスのファーストソロアルバムの「ゴー・バック・ホーム」での演奏が含まれる。

デレク・アンド・ザ・ドミノス

→詳細は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」を参照
クラプトンは、彼の周りに形成され始めた「スター」としてのカルト的賞賛を打ち消す意図で、デラニー&ボニーのリズムセクションを担当していたキーボーディストのボビー・ウィットロック、ベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ゴードンを誘い、新しいバンドを結成した。クラプトンは自らが主役を演じる必要がなく、アンサンブルのメンバーとしてうまく機能することを示したかった[61]。この期間にクラプトンはザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の影響をますます受け、「僕がバンドについて感謝したのは、彼らが歌と歌うことにもっと関心を持っていたということだった。彼らは3パートと4パートのハーモニーを持ち、ギターは伴奏としての視点に戻された。それは僕にぴったりだった。なぜなら僕は、期待されていたという理由だけで、長くて退屈なギターソロの美徳(または疑似美徳)を演奏しなければならなかったことにとても飽きていたからだ。バンドは物事を見通しに戻したんだ。 優先順位は歌だった」と語っている[62]。



 彼らはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」と呼ばれていた。最終的な名前は、バンドの暫定的な名前である「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解され「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、気まぐれでそれに決定した。クラプトンの伝記によると、アシュトン、ガードナー・アンド・ダイクのトニー・アシュトンはクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」と呼ぶように言ったとする。当時「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合され、最終的な名前は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった。

 クラプトンはジョージ・ハリスンと親密な交際をするようになり、その過程でハリソンの妻のパティ・ボイドと出会う。彼はボイドに深く夢中になった。ボイドはクラプトンの恋心に拍車をかけ、彼の片思いはドミノスのアルバム『いとしのレイラ』の曲の大半に現れた。ブルースの影響を強く受けたこのアルバムは、クラプトンとデュアン・オールマンのツインリードギターをフィーチャーし、オールマンのスライドギターがサウンドの重要な要素となっている。ドミノスはマイアミのクライテリア・スタジオで、アトランティック・レコードのプロデューサーのトム・ダウドと共に2枚組アルバムのレコーディングを行った。

アルバムにはヒット曲「いとしのレイラ」が含まれる。これは12世紀のペルシア文学の詩人、ニザーミー・ギャンジェヴィーによる『ライラとマジュヌーン』にインスパイアされたものである。この本はイスラム教に改宗した友人のイアン・ダラスがクラプトンに渡した。物語は、父親に結婚を禁じられた月の王女と、彼女を絶望的に恋する若者マジュヌーンが気が狂ってしまうというもので、クラプトンに深い感銘を与えた。「レイラ」の2つのパートは別々のセッションで録音された。最初にオープニングのギターセクションが録音され、数週間後に加えられた2番目のセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏した。この部分はゴードンの作曲となっているが、ボビー・ウィットロックはリタ・クーリッジがそのメロディーを作曲したと語っている。

アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストであるデュアン・オールマンの予期せぬ参加のおかげで、実際には5人編成で録音された。セッションの数日後、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外コンサートに招待した。2人のギタリストは最初にステージで出会い、次にスタジオで一晩中演奏し、友人となった。デュアンは最初に「テル・ザ・トゥルース」と「だれも知らない」でスライドギターを演奏した。5ピースのドミノスは4日間で、「ハイウェイへの関門」、「愛の経験」(フレディ・キングなどによって普及したブルースの標準)、「恋は悲しきもの」を録音した。9月にデュアンは自分のバンドとのギグのためにセッションを一時的に離れ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「ベル・ボトム・ブルース」、「キープ・オン・グロウイング」を録音した。デュアンはレコーディングに戻り、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音した。9月9日、彼らはジミ・ヘンドリックスのカバー「リトル・ウィング」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日、最終曲「イッツ・トゥー・レイト」が録音された。



 しかし、セッション中にクラプトンはヘンドリックスの死去のニュースに打ちのめされた。ヘンドリックスの死の前日の1970年9月17日、クラプトンは誕生日プレゼントとしてヘンドリックスに贈る予定だった左利き用のフェンダー・ストラトキャスターを購入していた。クラプトンの悩みに加えて、『レイラ』リリース時のレビューは芳しいものでなかった。動揺したグループは、オールマン・ブラザーズ・バンドに戻ったオールマンなしでアメリカツアーを行った。クラプトンが後にツアーはドラッグとアルコールにまみれた中で行われたことを認めたにもかかわらず、結果として二枚組のライブアルバム『イン・コンサート』をもたらし、それは高く評価された。

 ドミノスは2枚目のスタジオアルバムのレコーディングを行っていたが、エゴの衝突が起こりクラプトンが出て行ったことでグループは解散。オールマンは1971年10月29日のオートバイ事故で死去した。クラプトンは後に自伝で、フロリダでのレイラセッション中に彼とオールマンは切っても切れない関係になったと書いている。彼はオールマンのことを「かつてなかったが、僕がしたかった音楽の兄弟」として語っている[69]。レイドルは1979年の夏までクラプトンのベーシストであり続けたが、1980年5月にアルコールと麻薬の影響で死去した。クラプトンとウィットロックは2000年まで共演することは無かった。2人は2000年にBBCのジュールズ・ホランドの番組「Later... with Jools Holland」で再共演した。ドミノスのもう一つの悲劇はジム・ゴードンの運命である。彼は1983年に母親をハンマーで殺害。犯行当時、彼は既に統合失調症に罹患していたものの診断がついておらず、逮捕後に初めて正しく診断が下された。1984年7月10日、彼は懲役16年の判決を受けて収監された後、カリフォルニア医療施設に移され、2023年3月に生涯を終えた[23]。

個人的問題と初期のソロでの成功
1970年代のクラプトンの成功は、ロマンチックな憧れとドラッグやアルコール中毒に悩まされ、もがき苦しんだ個人的生活とは全く対照的であった[70]。彼はまだボイドに夢中でハリスンとの友情に引き裂かれていたが、ドミノスの解散後はサリーの自宅に閉じこもりツアーやレコーディングから距離を置いた。彼はヘロイン中毒の療養に入り、活動を中断した。

1971年8月1日、ハリスンとラヴィ・シャンカルがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開催した『バングラデシュ難民救済コンサート』にバンドのメンバーとして出演。体調は万全ではなかったが、午後2時半と8時の2回のコンサートの両方に登場し、ステージ上で気絶したものの復帰し、なんとか務めを果たした[23]。

1972年、ザ・フーのピート・タウンゼントが彼の復帰を支援しようと呼びかけ、ウィンウッド、グレッチ、ロン・ウッド、ジム・キャパルディ(トラフィック)、ジミー・カーステイン(ジョー・コッカー)、リーバップ・クワク・バー(トラフィック)が集まった[71]。1973年1月13日の午後5時半と8時半の2回、彼はロンドンのレインボー・シアターで開催された『レインボー・コンサート』にタウンゼントらをバックに出演した[72]。


イヴォンヌ・エリマンとクラプトン、1974年
1974年、彼はボイドと同居し始めた。もはやヘロインは使用していなかったが代わりに飲酒量が増えていった。彼はレイドル、マイアミのギタリストジョージ・テリー、キーボーディストのディック・シムズ(2011年死去)[73]、ドラマーのジェイミー・オールデイカー、ヴォーカリストのイヴォンヌ・エリマンとマーシー・レヴィ(マルセラ・デトロイトとしても知られる)を含む控えめなツアーバンドを結成し、『461 オーシャン・ブールヴァード』を録音。このアルバムはよりコンパクトな曲とより少ないギターソロに重点を置いた。ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」のカバーは彼にとって初のナンバーワンヒットになり、レゲエとマーリーの音楽がより多くの聴き手を得るのに貢献した。

同年5月、監督ケン・ラッセルの映画「トミー」の撮影に参加してサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの「Eyesight to the Blind」を演奏する「伝道師」(The Preacher)を演じた[74]。映画は翌1975年3月に公開されて、彼は人気を取り戻した。彼は幾つかのショットで明らかに付髭を使用している。これは最初に髭を剃って撮影に臨んだが、ラッセルがそのテイクを削除して撮り直すことに決めたからだった[64]。

1975年に発表したアルバム『安息の地を求めて』にも前作と同じ傾向が続いた。アルバムのオリジナルタイトルである『The World's Greatest Guitar Player 』は、その皮肉な意図が誤解されると感じられたため、プレス前に変更された。バンドはワールドツアーを行い、その様子は『エリック・クラプトン・ライヴ』となってリリースされた[75]。クラプトンはその後もアルバムをリリースし続け、定期的にツアーを行った。この期間のハイライトとして、『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(ボブ・ディランとザ・バンドとのコラボレーション)、『スローハンド』(「ワンダフル・トゥナイト」と2度目のJ・J・ケイルのカバー「コカイン」を含む)が挙げられる。1976年、彼はマーティン・スコセッシのドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」で撮影されたザ・バンドの解散コンサートに、一連の著名なゲストの1人として出演した。1977年頃はロニー・レーンと共に過ごす事が多くなり、レーンの家の庭で焚き火をしながら「ワンダフル・トゥナイト」を最初に彼に聴かせている。二人で電車を貸し切って気ままなヨーロッパツアーも行っており、レーンとの出会いはその後のクラプトンの人生観と音楽に影響を与えた[76]。

成功の発展

7度のRIAAプラチナ認定を受賞した『ベスト・オブ・エリック・クラプトン』(1982)
1981年、クラプトンはプロデューサーのマーティン・ルイスに招待され、アムネスティ・インターナショナルのチャリティーコンサートであるロンドンの「シークレット・ポリスマンズ・アザー・ボール」に出演した。クラプトンは招待を受け入れ、ジェフ・ベックと組んで数曲をデュエットしている。伝えられるところによると、これがステージ上での彼らの最初のコラボレーションであった。公演のうち3曲はショーのアルバムでリリースされ、1曲は映画に登場した。ロンドンのドゥルリー・レーン劇場での公演は、新しい10年でクラプトンの形と卓越性への回帰を告げた。ヘロイン中毒の前に改宗した「キリスト教への深いコミットメント」など、クラプトンの復帰には多くの要因が起因している[77][78][79]。

1982年1月、クラプトンはマネージャーに電話し、アルコール依存症であることを認めた後、ミネアポリス・セントポールに飛び、ミネソタ州センターシティにあるヘーゼルデン・トリートメントセンターに入所。飛行機の中で、クラプトンは二度と飲むことができないのではないかと恐れ、たくさんの酒を飲んだという。クラプトンは自伝に次のように書いている:[80]

僕の人生の最悪の瞬間に、自殺しなかった唯一の理由は、死んだらもう飲むことができないだろうと知っていたということだった。それは僕が生きる価値があると思った唯一のことだった、そして人々が僕をアルコールから遠ざけようとしているという考えはひどいものだった。なぜなら僕は飲んで飲んで飲んで、そして彼らは実際に僕を診療所に連れて行かなければならなかった。
退院後、ヘーゼルデンの医師はクラプトンがアルコール依存症やストレスの引き金となるような活動に参加しないように勧めた。しかしクラプトンは1987年11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターに戻ることとなる。最初のリハビリから退院してから数か月後、クラプトンは医師の指示に反して次のアルバムの制作を始めた。トム・ダウドと協力して、彼はこれまで「最も強制的な」アルバム『マネー・アンド・シガレッツ』を制作。クラプトンはアルコール依存症からの最初のリハビリの後、「それ(金とタバコ)が自分が去ったのを見たすべてだった」からこのアルバム名を選んだ[81]。

1984年にクラプトンはピンク・フロイドの元メンバーであるロジャー・ウォーターズのソロアルバム『ヒッチハイクの賛否両論』に出演し、サポートツアーに参加。それ以来、ウォーターズとクラプトンは密接な関係を築いてきた。2005年に彼らは津波救援基金のためも共演し、2006年にもカントリーサイド・アライアンスの支援を受けて、ハイクレア・カースルで「あなたがここにいてほしい」と「コンフォタブリー・ナム」の2曲を演奏している。現在は定期的にチャリティーパフォーンスを行っているクラプトンだが、1985年7月13日にフィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムで開催されたライヴエイドコンサートで、フィル・コリンズ、ティム・レンウィック、クリス・ステイントン、ジェイミー・オールデイカー、マーシー・レビー、ショーン・マーフィー、ドナルド・ダック・ダンらと共演した[82]。視聴時間のピークに近いスロットを提供されたとき、彼は明らかに照れていたようだった。彼は1980年代もコンスタントにアルバムを発表し、1985年には「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒット曲を含んだ『ビハインド・ザ・サン』をフィル・コリンズと共に制作し、1986年の『オーガスト』でもコリンズを起用した[83]。

『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドに溢れ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大の売り上げとなり、チャートの最高位でとなる3位に到達した。アルバムの最初のトラックであるヒット曲「イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」はトム・クルーズとポール・ニューマンの映画「ハスラー2」で使用された。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「ススーディオ」やその他の作品の作風を反映し、一方「ティアリング・アス・アパート」(ティナ・ターナーと共演)や「ミス・ユー」ではクラプトンのより激しいサウンドが続けられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストのネイザン・イースト、キーボーディストのグレッグ・フィリンゲインズと共に2年に及ぶツアーを開始した。『オーガスト』ツアーでは4人のバンドの2本のコンサートビデオ『Eric Clapton Live from Montreux』と『Eric Clapton and Friends』が撮影された。クラプトンは後に「アフター・ミッドナイト」を、ミケロブビールのプロモーション用シングルとして作り直した。同ブランドはコリンズやスティーヴ・ウィンウッドの曲も使用していた。

1985年、BBCテレビジョンのスリラーシリーズ「刑事ロニー・クレイブン」のスコアをマイケル・ケイメンと共作し、英国アカデミー賞テレビ部門を受賞した。また、ロンドンで開催された1987年のブリット・アワードで、クラプトンは音楽への優れた貢献に対して賞を受賞した[12]。同年にはジョージ・ハリスンのアルバム『クラウド・ナイン』に参加し、「クラウド・ナイン」、「ザッツ・ホワット・イット・テイクス」、「デヴィルズ・レイディオ」、「金星の崩壊」で共演している[84]。

クラプトンはまた、ビージーズと共にチャリティーを行った。グループはザ・バンバリーズと名乗り、収益をチェシャーのバンバリー・クリケットクラブに寄付するチャリティーアルバムを録音した。このクラブは、イギリスの非営利団体への資金を集めるためにクリケットのエキシビションマッチを行っている。ザ・バンバリーズは、The Bunbury Tailsのために「"We're the Bunburys"」「"Bunbury Afternoon"」「"Fight (No Matter How Long)"」の3曲を録音した。「"Fight (No Matter How Long)"」は『1988 Summer Olympics Album: One Moment in Time』に収録され、ロック・チャートで8位になった[85]。クラプトンは2011年にロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで開催されたクリケットクラブの25周年記念式典でも演奏している[86]。

1988年、ウェンブリー・スタジアムで行われたネルソン・マンデラ70歳の誕生日トリビュートでダイアー・ストレイツ、エルトン・ジョンと共に演奏し、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたプリンス・トラストロックガーラにも出演[87]。

1989年、ブルース、ジャズ、ソウル、ポップなど、幅広いスタイルをカバーした『ジャーニーマン』をリリース。共演ミュージシャンはジョージ・ハリスン、フィル・コリンズ、ダリル・ホール、チャカ・カーン、ミック・ジョーンズ、デイヴィッド・サンボーン、ロバート・クレイが含まれた。「バッド・ラヴ」はシングルとしてリリースされ、後にグラミー賞の最優秀男性ロックボーカルパフォーマンスを受賞した[88]。

1990年代
1990年代はロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートで始まった。『24ナイツ』は同会場で1990年1月から2月頃、1991年2月から3月にかけて行われた演奏が収められた。1990年6月30日、ダイアー・ストレイツ、クラプトン、エルトン・ジョンがイギリスのネブワースで開催されたノードフ=ロビンズのチャリティーショーにゲスト出演[89]。

1990年8月27日、クラプトンと一緒にツアーを行っていたブルースギタリストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンとそのロードクルーのメンバー3名が、コンサート後の移動で乗り込んだヘリコプターが墜落し、死亡した。

1991年3月20日、クラプトンの4歳の息子コナーが母親の友人のニューヨーク市東57丁目117番のアパートの53階の窓から転落して死亡。コナーの葬儀は3月28日にサリー州リプリーのクラプトンの故郷の村にあるマグダラのマリア教会で行われた[90]。

1991年、リッチー・サンボラのアルバム『ストレンジャー・イン・ディス・タウン』収録曲「ミスター・ブルースマン」(サンボラがクラプトンやロバート・ジョンソンに捧げた曲)に参加[91]。翌年のエルトン・ジョンのアルバム『ザ・ワン』で、エルトンとのデュエットである「ランナウェイ・トレイン」にギターとヴォーカルで参加した[92]。

僕はほとんど無意識のうちに音楽を癒しのエージェントとして使っていたが、見よ、それはうまくいった...僕は音楽からたくさんの幸せとたくさんの癒しを得た。
-「ティアーズ・イン・ヘブン」を書いているときの癒しのプロセスに関するクラプトン[93]
息子コナーへの悲しみは、ウィル・ジェニングスとの共作「ティアーズ・イン・ヘヴン」で表された[94][95]。第35回グラミー賞でクラプトンはシングル「ティアーズ・イン・ヘヴン」とアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』で6つのグラミー賞を受賞している[96]。このアルバムは1992年1月16日にバークシャーのウィンザーにあるブレイ・フィルム・スタジオで少人数の聴衆の前で行われたライブ演奏が収められたものだった。ビルボード200でナンバーワンに達し、アメリカで1,000万枚以上を販売したことでRIAAからダイヤモンドの認定を受賞した[97]。全英アルバムチャートでは2位に達し、イギリスではプラチナの認定を4回受賞した[98]。

1992年9月9日、1992年のMTVビデオミュージックアワードで「ティアーズ・イン・ヘヴン」を演奏し、最優秀男性ビデオ賞を受賞した[99][100]。同年、クラプトンは英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つのアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した[101]。1992年10月にはボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演している。コンサートはニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで録音され、二枚組のアルバム『30〜トリビュート・コンサート』としてリリースされた。多くのミュージシャンが古くからのディランの曲を演奏した様子が収められており、クラプトンはコンサートのフィナーレの一部である「天国への扉」でリードギターを担当[102]。

アルバム『アンプラグド』の成功の後、1994年のアルバム『フロム・ザ・クレイドル』では古いブルーススタンダードをカバー[103]。1995年、クリッシー・ハインド、シェール、ネナ・チェリーと共演したシングル「Love Can Build a Bridge」を、チャリティー番組「コミックリリーフ」の支援としてリリースした。同シングルはクラプトンが出演したシングルで初めて全英No.1となる[104]。

1996年9月12日、クラプトンはニューヨーク市のレキシントン・アーモリーで行われたアルマーニのパーティーにグレッグ・フィリンゲインズ、ネイザン・イースト、スティーヴ・ガッドらと共に出演した。シェリル・クロウは「ティアリング・アス・アパート」を歌ったが、『オーガスト』からのこの曲は1986年のプリンス・トラスト・オールスター・ロックショーでティナ・ターナーが最初に演じた曲であった。ハイドパークで開かれた野外コンサート[105] に続いて行われたこのショーは、その年のクラプトンの唯一のアメリカにおけるショーであった[105]。同年にウェイン・カークパトリック/ゴードン・ケネディ/トミー・シムズらと録音した「チェンジ・ザ・ワールド」(映画「フェノミナン」のサウンドトラック)は、1997年にグラミー賞のソング・オブ・ザ・イヤーを受賞。続いて『Retail Therapy』(サイモン・クライミーが所属するTDFのアルバム)のレコーディングにも参加している。またこの頃にはシンガーソングライターのシェリル・クロウと関係を持っており、クラプトンはクロウのセントラル・パークでのコンサートにゲストとして出演し、2人はクリームのヒット曲「ホワイト・ルーム」を演奏した。その後クラプトンとクロウは、2007年6月のクロスロード・ギター・フェスティバルで他のギターレジェンドらと共に「タルサ・タイム」を演奏し、2008年8月にロンドンのハイド・パークでジョン・メイヤーとロバート・ランドルフと共にロバート・ジョンソンのブルースクラシック「クロスロード」を演奏した。

1997年9月15日、クラプトンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたモントセラト島救済コンサートに出演、「いとしのレイラ」と「セイム・オールド・ブルース」を演奏した後、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、フィル・コリンズ、マーク・ノップラー、スティングらとともに「ヘイ・ジュード」を演奏した[106]。その秋、クラプトンはアルバム『ピルグリム』をリリース[79]。

1999年2月24日、第41回グラミー賞でクラプトンは「マイ・ファーザーズ・アイズ」で3度目のグラミー賞最優秀男性ポップボーカルパフォーマンスを受賞した[107]。1999年10月、コンピレーションアルバム『ベスト・オブ』がリリースされた。このアルバムには映画「プリティ・ブライド」の劇中曲「ブルー・アイズ・ブルー」が収められた[108][109]。20世紀はカルロス・サンタナ、B.B.キングとの共作で終えることとなり、クラプトンはキングを尊敬しており、常に彼と一緒にアルバムを作りたいと思っていたという。キングはクラプトンについて「私は彼を尊敬しており、彼はギタリストとしてロックンロールでナンバー1、そして素晴らしい人物としてナンバー1だと思う」と語っている[110]。

ヤードバーズ

クラプトンは1963年にヤードバーズのギタリスト、トップ・トーパムに代わって加入した。
ヤードバーズがブルースロックからラジオ向けのポップ指向を目指したことに不満を抱いたクラプトンは1965年に脱退。

ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ


1966年にメイオールを脱退

クリーム

1968年11月にクリームが解散した


ブラインド・フェイス

1枚のアルバムを発表し1度のツアーを行った。ブラインド・フェイスは1970年に解散し、クラプトンはソロキャリアに乗り出した。


ソロキャリアに加えて、クラプトンはデラニー&ボニー、デレク・アンド・ザ・ドミノスとも共演し、代表曲の1つである「いとしのレイラ」をレコーディングした。

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2025年1月29日水曜日

映画 ブルース・ブラザース

 映画 ブルース・ブラザース



music

1 シー・コート・ザ・ケティ

 She Caught the Katy


「シー・キャッチ・ザ・ケイティ(アンド・レフト・ミー・ア・ラバ・トゥ・ライド)」は、タージ・マハールとジェームズ・ラシェルが作曲した明るいブルースである。[ 1 ]この曲はタージ・マハールの1968年のアルバム『ザ・ナチュラル・ブルース』で初めてリリースされ、[ 2 ]マハールの最も有名な作品の一つである。[ 3 ]


この曲はそれ以来ブルースのスタンダードとなり、何度もカバーされている。1980年の映画「ブルース・ブラザーズ」のサウンドトラックに使用された(ジェイク・ブルースが刑務所を出るオープニングクレジットでこの曲が流れる)。[ 4 ]ジョン・ベルーシの未亡人によると、これはベルーシのお気に入りのブルース曲だったという。[ 5 ]


「ケイティ」はミズーリ・カンザス・テキサス鉄道を指します。[ 6 ]


She Caught The Katy - Taj Mahal (Original Studio Recordings - 1968) YouTube


タジ・マハール music

タジ・マハール(Taj Mahal、1942年5月17日 - )はアメリカ合衆国のミュージシャン。本名はヘンリー・セントクレア・フレデリックス(Henry Saint Clair Fredericks)。

一作のアルバムにブルース、R&B、レゲエ、ケイジャン、ゴスペル、ブルーグラス、ハワイ、カリブ、アフリカの伝統音楽など多様な音楽を盛り込み、単にルーツをなぞるだけに留まらず、そこに独自の個性を織り込んでまとめあげる、という特徴を持つ。バンジョー、スライドギター、スティールパンなど様々な楽器を自在に操ることでも知られている。

アルバム『セニョール・ブルース』(1997年)で第40回グラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ブルース・アルバム賞を受賞した[1]。

music



2 ピーター・ガン

 Peter Gunn Theme



『ピーター・ガン』(Peter Gunn) は、同名のテレビ番組『ピーター・ガン』のテーマ曲としてヘンリー・マンシーニが作曲した楽曲[1]。オリジナル・サウンドトラック・アルバム『The Music from Peter Gunn』の冒頭に収録されて、1959年にリリースされた[2]。このアルバムによって、マンシーニはエミー賞に加え、グラミー賞をふたつ、アルバム・オブ・ザ・イヤーと最優秀編曲賞を獲得した[3]。


The Music from Peter Gunn

 music




3 ギミ・サム・ラヴィン

 Gimme Some Lovin'

「愛しておくれ」(あいしておくれ、Gimme Some Lovin')は、スペンサー・デイヴィス・グループが1966年に発表した楽曲。


ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では247位にランクされている[2]。


スペンサー・デイヴィス・グループ

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1965年デビュー。1966年から1967年にかけて代表曲となる「愛しておくれ (Gimme Some Lovin')」、「アイム・ア・マン」などの全英TOP10ヒットを放った。アメリカのビルボード・チャートでも、「愛しておくれ」は7位[注釈 1]、「アイム・ア・マン」は10位まで上昇した。当時十代後半だったボーカリスト、オルガニストのスティーヴ・ウィンウッド[3]は、そのソウルフルな歌声から音楽メディアなどによって、もてはやされた。グループのヒット曲には他に「キープ・オン・ランニン」、「サムバディ・ヘルプ・ミー」がある[注釈 2]。しかし1967年にスティーヴとマフのウィンウッド兄弟が脱退すると、バンドの活動は行き詰まった。


・男が女を愛する時

アルバム

『ゼア・ファースト・LP』 - Their First LP (1965年)

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『セカンド・アルバム』 - The Second Album (1966年)

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『オータム '66』 - Autumn '66 (1966年)

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『ウィズ・ゼアー・ニュー・フェイス・オン』 - With Their New Face On (1968年)



Funky (1969年) ※初出タイトルは『Letters From Edith』



『グラッゴ』 - Gluggo (1973年)



『リヴィング・イン・ア・バック・ストリート』 - Living in a Back Street (1974年)


◎The Greatest Hits 

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4 シェイク・ユア・テイルフェザー レイ・チャールズ

 Shake a Tail Feather (feat. Ray Charles)

5 エヴリバディ・ニード・サムバディ

 Everybody Needs Somebody to Love

6 オールド・ランドマーク ジェームズ・ブラウン

 The Old Landmark 

7 シンク アレサ・フランクリン 

 Think

8 ローハイド

 Theme from Rawhide

9 ミニ・ザ・ムーチャー

 Minnie the Moocher

10 スウィート・ホーム・シカゴ

 Sweet Home Chicago

11 監獄ロック

 Jailhouse Rock

映画ブルース・ブラザース2000

 映画 ブルース・ブラザース2000 





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Blues Brothers 2000





1 Born In Chicago  
2 The Blues Don't Bother Me 
3 Harmonica Musings 
4 Cheaper To Keep Her 
5 Perry Mason Theme 
6 Looking For A Fox 
7 Can't Turn You Lose 
8 R-E-S-P-E-C-T
9 634-5789
10 Maybe I'm Wrong
11 Riders In The Sky (A Cowboy Legend)
12 John The Revelator
13 Let There Be Drums
14 Season Of The Witch
15 Funk Nassau
16 How Blue Can You Get
17 Turn On Your Love Light
18 New Orleans






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クイーン・ムセット:エリカ・バドゥ music


エリカ・アビー・ライト(英語: Erica Abi Wright、1971年2月26日 - )は、エリカ・バドゥ(英語: Erykah Badu)の名で知られるアメリカ合衆国テキサス州ダラス出身のミュージシャン[3]。ヒップホップやR&Bにジャズを融合させたスタイル、ネオ・ソウルで知られている[4]。

スタジオ・アルバム
『バドゥイズム』 - Baduizm (1997年)
『ママズ・ガン』 - Mama's Gun (2000年)
『ワールドワイド・アンダーグランド』 - Worldwide Underground (2003年)
『ニュー・アメリカ・パート1 (第4次世界大戦)』 - New Amerykah Part One (4th World War) (2008年)
『ニュー・アメリカ・パート2 (リターン・オブ・ザ・アンク)』 - New Amerykah Part Two (Return of the Ankh) (2010年)
ライブ・アルバム
『ライヴ』 - Live (1997年)

「ルイジアナ・ゲーター・ボーイズ」のメンバー

エリック・クラプトン(ギター、ボーカル) music

 エリック・パトリック・クラプトン(Eric Patrick Clapton, CBE、1945年3月30日 - )は、イギリスのシンガーソングライター、ギタリスト[2]。史上最も重要で影響力のあるギタリストの1人とされる[4][5]。クラプトンはローリング・ストーン誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位[6]、ギブソンの「史上最高のギタリストトップ50」で4位にランクされた[7]。2009年にはタイム誌の「エレクトリックギタープレーヤーベスト10」で5位に選ばれた[8]。



ボー・ディドリー(ギター、ボーカル)music

 ボ・ディドリー(Bo Diddley, 本名:エラス・O・B・マクダニエル, Ellas O.B. McDaniel, 1928年12月30日 - 2008年6月2日)は、アメリカのロックンロール・シンガー、ギタリスト。ボ・ディドリー・ビートと称される強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、ブルースとロックンロールの掛け橋となり、チャック・ベリー、リトル・リチャードらとともにロックンロールの生みの親のひとりとして知られるようになった。ローリング・ストーンズやU2、彼の名を「苗字」として冠したBO GUMBOSなど、数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第20位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第37位、2011年の改訂版では第27位[1]。

アイザック・ヘイズ(ボーカル)music


アイザック・リー・ヘイズ・ジュニア(Isaac Lee Hayes, Jr.、1942年8月20日 - 2008年8月10日)は、アメリカ合衆国テネシー州出身のミュージシャン、俳優。

1960年代において、スタックス・レコードにてパートナーのデイヴィッド・ポーターと数々の楽曲を提供・プロデュースし、サザン・ソウルの発展に寄与した。2005年にはポーターと共にソングライターの殿堂入りした。

1971年に公開した映画『黒いジャガー』(原題:Shaft)の音楽制作に関わり、主題歌「黒いジャガーのテーマ」がヒットし、アカデミー歌曲賞・グラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門・ゴールデングローブ賞 作曲賞を受賞した。

2002年にはロックの殿堂入りを果たしている。また、俳優としても活動しており、何本もの映画に出演。1997年から2005年にかけて、アニメ番組『サウスパーク』で声優を務める。

・THEME FROM SHAFT - LIVE

ジャック・ディジョネット(ドラム) music

 ジャック・ディジョネット[注 1](Jack DeJohnette、1942年8月9日 - )は、アメリカのジャズ・ミュージシャン、ドラマー、ピアニスト。

スティーヴ・ウィンウッド(オルガン、ボーカル) music

スティーヴン・ローレンス・ウィンウッド(通称スティーヴ・ウィンウッド、Stephen Laurence "Steve" Winwood、1948年5月12日 - )は、イングランド・バーミンガム出身のブルー・アイド・ソウル、ロック・ミュージシャン。

1960年代半ばにスペンサー・デイヴィス・グループのメンバーとして音楽活動を開始し、1970年代半ばまではトラフィック、ブラインド・フェイスなどロック史に残るバンドの中心メンバー、その後はソロ・アーティストとして、60年近く活動している。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位[1]。

ジェフ・バクスター(ギター)music

ジェフ・バクスター(Jeff "Skunk" Baxter、1948年12月13日 - )は、アメリカ合衆国出身のギタリスト、軍事アナリスト。アメリカ国防総省の軍事顧問を務める。愛称はスカンク(悪い奴の意)。ロックからジャズ、カントリーまで幅広い演奏スタイルを持つ。

ゲイリー・U.S.ボンズ GGARY U.S.BONDS(ボーカル)music

 ゲイリー・US・ボンズ(本名ゲイリー・レヴォン・アンダーソン、1939年6月6日)[ 1 ]は、ヒット曲「ニューオーリンズ」や「クォーター・トゥ・スリー」で知られるアメリカのリズム・アンド・ブルース、ロックンロール歌手である。

クラレンス・クレモンズ(サックス)music

クラレンス・クレモンズ(英語: Clarence Clemons、1942年1月11日 - 2011年6月18日)は、米国出身のサックス奏者、歌手。脳卒中の合併症のため死去。ザ・ビッグマン(The Big Man)の呼び名でも知られる。

ブルース・スプリングスティーンのレコーディングやコンサートでバック演奏を務めるEストリートバンド(英語版)[1]のメンバーとして活動した。

ジョン・ファディス(トランペット)music

ジョン・ファディスは、アメリカのジャズトランペット奏者、指揮者、作曲家、教育者であり、演奏と音楽教育の分野での専門知識の両方で有名です。シーンに初めて登場したとき、彼はトランペットのアイコンであるディジー・ガレスピーの音を忠実に反映する能力で知られるようになりました。

ドクター・ジョン(キーボード、ボーカル) music

ドクター・ジョン(Dr. John、本名Malcolm John Rebennack Jr.、1941年11月21日 - 2019年6月6日[1])は、アメリカ合衆国出身のミュージシャン。

10代の頃より60年以上に渡って活動した、ブルース界の重鎮として知られる。ジャズの本場ニューオーリンズを拠点に多くの足跡を残し、同地音楽文化の象徴となっている。芸名ドクター・ジョンとは、19世紀のニューオーリンズにいたブードゥー教司祭の名から。

トミー・マクドネル(ボーカル)music

トミー・マクレイン (Tommy McLain、1940年3月15日 – )は、米国のスワンプ・ポップ・シンガー、ソングライター、ミュージシャン。1966年の「Sweet Dreams」のヒットで知られる。

〇チャーリー・マッセルホワイト(ハーモニカ、ボーカル) music

チャーリー・マッスルホワイト (Charlie Musselwhite、1944年1月31日 - ) は、アメリカ合衆国のブルース・ハーモニカ奏者、歌手。白人でありながら、若い頃からメンフィス、シカゴで黒人のブルース・ミュージシャンと共演を重ね1960年代に頭角を現した。

ビリー・プレストン(キーボード、ボーカル)music

ウィリアム・エバレット・プレストン (英語: William Everett Preston、1946年9月2日 - 2006年6月6日) は、アメリカ合衆国のミュージシャン。ヴォーカリスト。キーボード奏者。

R&B・ソウルミュージックのシンガー・ソングライターとしての活動に加えて、キーボード奏者としてビートルズやローリング・ストーンズを初めとする多くのミュージシャンやバンドと共演して、ロック・シーンでも名前を浸透させていった。ビートルズのシングルにクレジットされたこともあり、しばしば「5番目のビートル」と呼ばれた。

代表作には「〇ナッシング・フロム・ナッシング」などがある。


〇ルー・ロールス(ボーカル)music

シカゴ出身。幼少の頃から祖母の影響でゴスペルに親しむ。高校時代の同級生にサム・クックがおり、ともにゴスペルグループの歌手として活動するようになった。1950年代末にロサンゼルスへ移り、1961年にキャピトル・レコードからデビュー。1966年に「恋はつらいね(Love Is a Hurtin' Thing)」のヒットを放ち、グラミー賞の最優秀R&Bボーカル賞を獲得した。渋い低音の歌声が最大の魅力で、1971年には「ナチュラル・マン(A Natural Man)」で再び同賞に輝き、1976年には「別れたくないのに(You'll Never Find Another Love Like Mine)」のヒットも放った。

俳優、声優としての活動実績も多く、また1980年代からは黒人のための大学進学基金での慈善活動に多大な協力を行なった。2006年に肺ガンのため死去。

ジョシュア・レッドマン(サックス)


ココ・テイラー(ボーカル)


トラヴィス・トリット(ギター、ボーカル)


ジミー・ヴォーン(ギター、ボーカル)


グローヴァー・ワシントン・ジュニア(サックス)


ウィリー・ウィークス(ベース)








2025年1月28日火曜日

史上最高のブルース・アルバム100選 

 史上最高のブルース・アルバム100選

DiscoverMusic より




アルファベット順


1.アルバート・コリンズ “Ice Pickin” 1978

 music



アルバート・コリンズ(Albert Collins、1932年10月1日-1993年11月24日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身のブルース・ギタリスト、シンガー。フェンダー・テレキャスターを使用した、鋭角的なギター・プレイで名を馳せた。


2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第56位。

ウィキペディアより


2.アルバート・コリンズ “Robert Cray & Johnny Copeland Showdown!” 2011

 music  Showdown! 




3.アルバート・キング “Born Under a Bad Sign”(邦題:悪い星の下に)1967

 music




 アルバート・キング(Albert King, 1923年4月25日 - 1992年12月21日)はアメリカ合衆国ミシシッピ州インディアノーラ出身のブルース・ギタリスト、シンガー。本名はアルバート・ネルソン。B.B.キング、フレディ・キングと並び、ブルース・ギタリストの3大キングと称される。(血縁関係はない)


左利き(サウスポー)だが、右利き用に弦を張ったギターを逆に持って弾いていた。さらにチョーキングをしやすいように弦は低めに張り、かつチューニングは変則的だった。


2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第13位に選ばれている。チョーキングを多用した彼のシンプルかつ豪快なプレイは、ブルース界のみならず、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスらロック・ギタリストにも多大な影響を与えた。

ウィキペディアより

4.アルバート・キング “King of The Blues Guitar” 1969

 music




5.アレクシス・コーナー “Alexis Korner’s Blues incorporated R&B From The Marquee” 1962

music R&B From the Marquee




アレクシス・コーナー(Alexis Korner、1928年4月19日 - 1984年1月1日)は、イギリスのミュージシャン。多くのブルース・ミュージシャンを育てた功績から、「ブリティッシュ・ブルースの父」と呼ばれる。


6.アレサ・フランクリン “The Delta meets Detroit: Aretha’s Blues” 2008




アレサ・フランクリン(英語: Aretha Franklin、1942年3月25日 - 2018年8月16日)は、アメリカ合衆国出身の女性シンガーソングライター、ピアニスト[3]、本名はアレサ・ルイーズ・フランクリン(英語: Aretha Louise Franklin)。


グラミー賞受賞回数は20回で、女性としては27回受賞のアリソン・クラウスに次ぐ記録である。2005年には、大統領自由勲章を受章。

ウィキペディアより


7.B.B.キング “Singin’ The Blues” 1956

music 不明


1 Please Love Me

2 You Upset Me Baby

3 Every Day I Have The Blues

4 Bad Luck

5 3 O'clock Blues

6 Blind Love

7 Woke Up This Morning

8 You Know I Love You

9 Sweet Little Angel

10 Ten Long Years

11 Did You Ever Love A Woman

12 Crying Won't Help You

13 Whole Lotta Meat (Bonus Tracks)

14 I'm Cracking Up Over You (Bonus Tracks)

15 I Stay In The Mood (Bonus Tracks)

16 When My Heart Beats Like A Hammer (Bonus Tracks)

17 Jump With You Baby (Bonus Tracks)

18 Lonely And Blue (Bonus Tracks)

19 Dark Is The Night Pt 1 (Aka The Blues Has Got Me) (Bonus Tracks)



ライリー・B.キング(Riley B. King、1925年9月16日 - 2015年5月14日)は、B.B.キング(B.B. King)の名で知られるアメリカ合衆国のシンガーソングライター、ギタリスト、音楽プロデューサー。1950年代から晩年まで活躍したブルース界の巨人。ブルース界にただならぬ影響と業績を残したことから、「キング・オブ・ブルース」とも称される[7]。


「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第3位、2011年の改訂版では第6位。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第96位[8]。

ウィキペディアより

8.B.B.キング “Live At Cook County Jail” 1971




9.B.B.キング “Live at the Regal” 1965






10.ベッシー・スミス “The Complete Recordings, Vol. 1” 1991

 music 




 ベッシー・スミス(Bessie Smith, 1894年4月15日 - 1937年9月26日)は、アメリカのブルースシンガー。「ブルースの女帝」と称された彼女は、1930年代に最も人気のある女性ブルースシンガーだった。1989年、ロックの殿堂入りを果たした。テネシー州チャタヌーガ出身

ウィキペディアより

11.ビッグ・ビル・ブルーンジー “The Big Bill Broonzy Story” 1960

 music




ビッグ・ビル・ブルーンジー(Big Bill Broonzy、1893年[1]、1898年[2]あるいは1903年6月26日[3] - 1958年8月14日)は、生涯で300曲近くのブルースを作曲したアメリカ合衆国のブルース・シンガー、ギタリスト、作曲家。ミシシッピ州出身。

ウィキペディアより

12.ビリー・ホリデイ “Songs For Distingue Lovers”(邦題:アラバマに星落ちて) 1957

music 



 ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。


「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる[1]。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。


彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された[2]。

ウィキペディアより

・奇妙な果実 (Strange Fruit) YouTube 歌詞と写真 ブログ

・神よめぐみを (God Bless' the Child) YouTube 

・I Love You, Porgy YouTube  Nina Simone

・Fine and Mellow YouTube 



13.ブラインド・ブレイク “Ragtime Guitar’s Foremost Fingerpicker”




アーサー・"ブラインド"・ブレイク(Arthur "Blind" Blake, 1896年 - 1934年12月1日)は、主に1920年代のアメリカで活躍したブルース及びラグタイムギタリスト。"The King of Ragtime Guitar"と称される。


1926年-1932年までにおよそ80トラックをパラマウントレコードにおいて残している。 同時代の他にギタリストと比べ、もっとも洗練された完成度の高い技法を用い、センスのよいギターを弾いている。 その技法はまるでラグタイムピアノのようでもある。

ウィキペディアより


14.ブラインド・レモン・ジェファーソン “The Folk Blues of Blind Lemon Jefferson“ 1954

 music不明  


A1 Shuckin' Sugar Blues
A2 Broke And Hungry YouTube
A3 Lonesome House Blues
A4 Jack O' Diamond Blues
B1 Mosquito Moan
B2 Southern Woman Blues
B3 That Black Snake Moan No.2
B4 Balky Mule Blues

ブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson 1893年9月24日 - 1929年12月19日) は、アメリカ合衆国で1920年代に活動したブルース歌手である。いわゆる戦前ブルース、カントリー・ブルースの代表格のひとりとして知られる。ライトニン・ホプキンズ、T-ボーン・ウォーカーなど、後進のアーティストにも大きな影響を与えている。

15.ブラインド・ミシシッピ―・モリス “Back Porch Blues” 1999

Blind Mississippi Morris

 music 不明


YouTube 


ブラインド・ミシシッピ・モリス(本名:モリス・カミングス、1955年4月6日、アメリカ合衆国ミシシッピ州クラークスデール生まれ)は、アメリカのブルースミュージシャンである。

カミングスは先天性緑内障のため4歳の時に失明した。[ 2 ] [ 3 ]モリスはビール・ストリートでソロ・ブルース歌手となり、現在はポケット・ロケッツというバックバンドを組んでいる。

モリスは音楽のバックグラウンドを持っており、従兄弟のロバートとメアリー・ディッグスはメンフィス・シークスを率い、叔母のメアリー・タナーはハープ・オブ・メロディーで演奏していた。モリスはウィリー・ディクソンの従兄弟でもある。彼はブルーズハープ誌によって世界最高のハーモニカ奏者10人の一人に選ばれた。

ウィキペディアより


16.ブラインド・ウィリー・ジョンソン “The Complete Blind Willie Johnson” 1993

 music 




ブラインド・ウィリー・ジョンソン(英語: "Blind" Willie Johnson, 1897年1月22日 - 1945年9月18日)は、主に1920年代のアメリカで活躍した、ゴスペルミュージシャン、ブルースギタリスト。宣教師としても知られた。

ウィキペディアより


17.ブラインド・ウィリー・マクテル “The Definitive Blind Willie McTell” 1994

 music YouTube



 ブラインド・ウィリー・マクテル(Blind Willie McTell, 1898年5月5日 - 1959年8月19日)は、アメリカ合衆国のブルース歌手、ギター演奏者[2]。マクテルの音楽スタイルはアメリカ東海岸のブルース音楽を基底とするものの、それにとどまるものではなくラグタイムやゴスペルなどの黒人大衆音楽から田舎の白人の民俗音楽や流行歌・ヒット曲までに及ぶ広範な大衆音楽に親和的な面があり、裏声も使う高く濁りのないマクテルの歌声は同時代の白人のカントリーミュージックの歌手ジミー・ロジャーズを想起させるものがあった。また12弦ギターの演奏者としても卓越した技量を持ち、後世のフォーク音楽のギター演奏者によって高く評価されている。

ウィキペディアより


18.ボ・ディドリー “His Best” 1997

 music 



ボ・ディドリー(Bo Diddley, 本名:エラス・O・B・マクダニエル, Ellas O.B. McDaniel, 1928年12月30日 - 2008年6月2日)は、アメリカのロックンロール・シンガー、ギタリスト。ボ・ディドリー・ビートと称される強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、ブルースとロックンロールの掛け橋となり、チャック・ベリー、リトル・リチャードらとともにロックンロールの生みの親のひとりとして知られるようになった。ローリング・ストーンズやU2、彼の名を「苗字」として冠したBO GUMBOSなど、数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第20位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第37位、2011年の改訂版では第27位[1]。

ウィキペディアより


・BO GUMBOS [feat. ボ・ディドリー] music 30曲目




19.ボビー‘ブルー’ブランド “The Voice (Duke Recordings 1959-69)


ボニー・レイット “Give It Up”


バディ・ガイ “I Was Walking Through the Woods”


キャンド・ヒート“Boogie with Canned Heat”


チャンピオン・ジャック・デュプリー “Blues from the Gutter”


チャーリー・マッスルホワイト “Stand Back! Here Comes Charley Musselwhite’s South Side Band“


チャーリー・パットン “Complete Recordings: 1929-1934”


クリス・バーバー “Good Morning Blues”


チャック・ベリー “ One dozen Berrys”


クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン “The Original Peacock Recordings”


クリーム “Wheels of Fire”(邦題:クリームの素晴らしき世界)


デレク・アンド・ザ・ドミノス “Layla, And Other Assorted Love Songs” (邦題:いとしのレイラ)


ダイナ・ワシントン “Dinah Sings Bessie Smith”


エルモア・ジェイムス “The Sky is Crying”


エリック・クラプトン “From The Cradle”


エタ・ジェイムズ “At Last”


フリートウッド・マック “Mr. Wonderful”


フランク・フロスト “Jelly Roll King”


フレディ・キング “Let’s Hide Away and Dance Away with Freddy King”


フリー “Tons of Sobs”


ゲイリー・ムーア “Still Got The blues”


ギター・スリム “Sufferin’ Mind”


ガイ・デイヴィス “Butt Naked Free”


ハウンド・ドッグ・テイラー “Hound Dog Taylor and the Houserockers”


ハウリン・ウルフ “Howlin’ Wolf”


ハウリン・ウルフ “Moanin at Midnight”


ジェイムズ・コットン “Superharps”


ジミー・リード “ Jimmy Reed at Carnegie Hall”


ジミー・ロジャーズ “Chicago Bound”


ジョン・リー・フッカー “Alternative Boogie: Early Studio Recordings 1948 – 1952”


ジョン・リー・フッカー “House of the Blues”


ジョン・メイオール “Blues Breakers with Eric Clapton”


ジョン・メイオール “Crusade”


ジョニー・ウィンター “Second Winter”


ジョニー・ラング “Lie to Me”


ジョシュ・ホワイト “Free & Equal Blues”


ジュニア・ウェルズ・シカゴ・ブルース・バンド “Hoodoo Man Blues”


ケブ・モ “Keb’ Mo’”


コーナー・レイ&グローヴァー “Blues, Rags and Hollers”


ラリー・ジョンソン “Blues From Harlem”


レッドベリー “King of the 12 String Guitar”


リロイ・カー “Hurry Down Sunshine”


ライトニン・ホプキンス “The Swarthmore Concert”


ライトニン・ホプキンス “Lightnin’ Hopkins”


リトル・ブラザー・モンゴメリー “Chicago – The Living Legends”


リトル・ミルトン “Greatest Hits”


リトル・ウォルター “His Best”


ロニー・ジョンソン “The Essential”


ローウェル・ファルソン “Blues Masters”


マ・レイニー “Ma Rainey’s Black Bottom”


マジック・サム “West Side soul”


メンフィス・ミニー “Bumble Bee: The Essential Recordings of Memphis Minnie”


メンフィス・スリム “Blues Great”


マイク・ブルームフィールド・アンド・アル・クーパー “The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper” (邦題:フィルモアの奇蹟)


ミシシッピ・フレッド・マクダウェル “I Do Not Play No Rock and Roll”


ミシシッピ・ジョン・ハート “Avalon Blues The Complete 1928 Okeh recordings”


モーズ・アリソン “Back Country Suite”


マディ・ウォーターズ “Muddy Waters at Newport 1969”


マディ・ウォーターズ “The Folk Singer”


ニーナ・シモン “Nina Simone Sings The Blues”


オーティス・ラッシュ “Otis Rush, 1956–1958: His Cobra Recordings”


ポール・バターフィールド・ブルース・バンド “The Paul Butterfield Blues Band”


ポール・バターフィールド・ブルース・バンド “East-West”


R.L.バーンサイド “Wish I Was In Heaven Sitting Down”


ロベン・フォード&ザ・ブルー・ライン “Handful of the Blues”


ロバート・クレイ “Strong Persuader”


ロバート・ジョンソン “King of the Delta Blues Singers”


ロリー・ギャラガー “Irish Tour”


スキップ・ジェイムス “The Complete Early Recordings”


スキップ・ジェイムス “Today”


サン・ハウス “Father of The Delta Blues”


サン・ハウス “Son House & The Great Delta Blues Singers”


サニー・ボーイ・ウィリアンソン “The Real Folk Blues”


サニー・テリー&ブラウニー・マギー “The Folkways Years 1944-1965”


スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル “Texas Flood” (邦題:テキサス・フラッド~ブルースの洪水)


T-ボーン・ウォーカー “T-Bone Blues”


T-ボーン・ウォーカー “The Complete Imperial Recordings”


タジ・マハール “Taj Mahal”


タンパ・レッド “Don’t Tampa With the Blues”


オールマン・ブラザーズ・バンド “At Filmore East”(邦題:フィルモア・イースト・ライヴ)


ザ・ローリング・ストーンズ “The Rolling Stones (UK debut album)”


タッツ・ワシントン “New Orleans Piano Professor”




ジョン・リー・フッカー ”キング・オブ・ブギ”

 Playlistsジョン・リー・フッカーの20曲:人々を圧倒してきたブルースの生き証人

DiscoverMusic 

John Lee Hooker

 Blues Brother  music




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1.Boogie Chillen  1948 YouTube 


2.Crawlin’ King Snake YouTube 


3.Hobo Blues YouTube


4.I’m In The Mood  YouTube


5.Ground Hog Blues  YouTube 


6.I’m Ready  YouTube 


7.Dimples YouTube 


8.Tupelo Blues YouTube 


9.I’m Bad Like Jesse James YouTube 


10.I’m Gonna Use My Rod YouTube 


11.I’m Mad Again YouTube  


12.Boom Boom YouTube   ブルース・ブラザース YouTube


13.Frisco Blues YouTube 


14.It Serves You Right To Suffer YouTube 


15.One Bourbon, One Scotch, One Beer YouTube 


16.The Motor City Is Burning YouTube 


17.Whiskey And Wimmen YouTube 


18.Make It Funky YouTube 


19.Carlos Santana & John Lee Hooker The Healer YouTube 


20.We’ll Meet Again YouTube 


21.Deep Blue Sea YouTube



22.Don’t Look Back YouTube 


1988年アルバム『The Healer』 

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1991年、ライ・クーダーがプロデュースした「Mr Lucky」

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2001年に発表された、彼が他界する前の最後のアルバムが『Don’t Look Back』である。彼の典型的なブギーと後悔を表現した感動的な作品だ。彼は自分の死期が近づいているのを確実に意識していたので、アルバム・タイトル曲「Don’t Look Back」は皮肉な意味になってしまったかもしれない。

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ベスト・オブ・フレンズ 1998

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祝生誕100年!”キング・オブ・ブギ”ことジョン・リー・フッカーが

超豪華な友人たちと楽しく繰り広げるベスト・アルバム