2026年3月17日火曜日

ジョーン・バエズ

ジョーン・バエズ

 きっかけ、映画「名もなき者」で知る。


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ウキペディアより

来歴

ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれる。彼女の一家は、クエーカー教徒であった。父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼした。妹のミミ・ファリーニャ(Mimi Fariña、1945年4月30日 - 2001年7月19日)もフォーク歌手であった。


歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。1960年10月、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』をヴァンガード・レコードから発売。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」[4]などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏されたものであった。


1961年9月発売の『ジョーン・バエズ 第2集(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『イン・コンサート』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した。


1967年1月11日、初来日[5][6][7]。同月13日から日本ツアーを開始した[8]。コンサートではニッポン放送の高崎一郎が司会通訳を務めた[7]。当時の週刊誌は、米国のCIAから圧力がかかり、高崎が意識的な誤訳を強要された疑いがあると報じた[7][9]。2月1日の東京厚生年金ホールの公演の音源が1973年に『ジョーン・バエズ・ライブ・イン・ジャパン』として発売されている。1973年に7年ぶりに再来日した際、「ニクソンはウォーターゲート事件から何の教訓も得ていない」「ベトナムには、まだ本当の休戦は実現していない」「中東戦争は自分の正当性に目が眩んだがために戦い」などと政治的発言を繰り返した[7]。前回来日時の高崎の件に関しては「恨んではいません。私にとってCIAは、既に私の人生の一部です」などと述べた[7]。


1968年12月、ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『Any Day Now』を発表。シングルカットされた「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」はバエズのコンサートの定番曲のひとつとなった。


1969年、ウッドストック・フェスティバルに出演。


2010年3月、スペイン政府より芸術文学の勲章を受勲し、Excelentisima Señoraの称号を得る。


2017年、『ロックの殿堂』入りを果たす[10]。


2018年、10年ぶりのアルバム『Whistle Down the Wind』をリリース。この作品と、それに伴うワールドツアーが最後になると明言し、第一線からの引退を表明した[11]。


2021年デヴィッド・クロスビーのアルバム、『フォー・フリー』のアルバムジャケットのアートワークを担当。


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