2025年2月14日金曜日

ハウス・ミュージック

 ハウス・ミュージック



ウィキペディアより

ハウス・ミュージック (英名:house music) は、1977年にアメリカ合衆国シカゴで誕生した音楽ジャンルの一つ。単にハウスと呼ばれることも多い。1970年代のディスコやフィリー・ソウル、サルソウル・サウンドなどを起源としている。


概要

 「ハウスミュージック」は、ディスコや、フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルやサルソウル・レコード[9]などの、いわゆるフィラデルフィア・ソウル(フィリーソウル)などの楽曲を音源とするものも多かった[9]。また、先駆者であるラリー・レヴァンや彼の「パラダイス・ガレージ」の客層と同様に、初期のハウスシーンは、ディスコと同様、DJ、客層ともに黒人やゲイが多かった。ディスコは音楽的な評価は低かったが、社会的にはゲイ、もしくはLGBTに対する性差別解消をテーマにする音楽であるとして、ある程度評価された。


 ハウスの語源は、シカゴのゲイ・ディスコ(英語版)「ウェアハウス」が名称由来とされている。その後、80年代末~90年代以降、ハウスの中心地はアメリカからイギリスを中心とするヨーロッパに移ったが、イギリスでは同性愛者のムーブメント色は薄れ、ミックス技術を追究することが試みられた。21世紀には音楽のアレンジ(編曲)上の一手法として、世界のクラブに普及している。性差別をテーマとする一部のハウスは、1980年代後半から90年代にかけて、差別や貧困をテーマとする一部のヒップホップ (hip hop) とともに、DJ(ディスクジョッキ―)プレイで好まれる音楽ジャンルとして定着した。

歴史

 ニューヨークの「パラダイス・ガレージ」のDJであったラリー・レヴァン[10]の友人で、自らも有能なDJであったフランキー・ナックルズ[11]は、1977年にシカゴに新たにオープンした「ウェアハウス[12]」の主力DJとしてニューヨークから招かれ、彼のDJは独特のミックス手法であって、特にゲイたちから高い人気を博したため、地元のレコード店が「ハウス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」と称して販売したのがハウスという名称の始まりと言われている。この成功の後、フランキーはウェアハウス経営者との衝突からウェアハウスを去り、シカゴ内の別の場所で「パワープラント」というクラブを始める。


 ウェアハウスのオーナーは「ウェアハウス」を「ミュージック・ボックス」と改名し、新たにカリフォルニアからロン・ハーディー(英語版)を後任DJとして招聘する。[13]ナックルズとハーディーの間の競争により、シカゴはダンス音楽界の中で、「ハウス」の普及とともにその地位を確立する。彼ら2人のプレイスタイルは、ラリーと彼のプレイしたいわゆる「ガラージュ」と呼ばれるスタイルの強い影響下にありながらも、ドラムマシンの使用によりアグレッシブな選曲の傾向を持ち、のちに一般的印象としての「ハウス」と呼ばれるスタイルの原型を築いた。


 その後、ハウスの人気はイギリスへも波及し、1987年にM/A/R/R/Sがリリースした「パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム (Pump up the Volume)」はヨーロッパで火がつき、全米チャートでもヒットとなった。また、1988年にイギリスを中心に発生したムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」やレイブも流行した。こうした運動を契機として、世界でハウス、シカゴ・ハウス、アシッド・ハウスが流行した。1990年代に入ってからはC&Cミュージック・ファクトリー[14]、ブラック・ボックス[注 2]、スナップ、テクノトロニックらがヒットを放った。また、ハウスはさらにスタイル、ジャンルの細分化が進み、マドンナなどの有名歌手がハウスのリズムである4つ打ちを使用するようになった。

・Pump up the Volume 1987 M/A/R/R/S



note より

アメリカでは、本格的にサンプリング・ヒップホップやハウス・ミュージックといったDJによるダンス・ミュージックがポップ・ミュージックのメインストリームとなっていった。

日本のハウス・ミュージック

 日本では1980年代後半頃より、アメリカでのハウス・ブームに呼応する形で、ハウスDJが登場するようになった。先駆的な活動を行ったDJとして、1980年に単身ニューヨークに渡り、ハウスを日本に伝導した高橋透がいる。高橋透は1989年に芝浦のクラブ、GOLDの立ち上げに伴って帰国、同店のサウンドディレクター及び毎週土曜日のメインDJを務めた。GOLDの毎週金曜日には当時、若手であった木村コウ (KO KIMURA) もプレイしていた。


 ニューヨークへ渡り、フランキー・ナックルズらと交流を深め、巨大ディスコ「The Saint」のDJとして日本人で初めて抜擢された中村直 (NAO NAKAMURA) は、その後、約10年間、ニューヨーククラブシーンの最前線に立ったが、彼もまた芝浦GOLDの立ち上げに合わせて帰国した。また、1985年より活動を開始し、1989年に「コニーズ・パーティ」のレジデントDJ、その後、芝浦GOLD土曜のレジデントを務めたEMMAも先駆者の一人である。


 1980年代後半に渡米し、デヴィッド・モラレス、フランキー・ナックルズと共にDef Mix Productionsの一員として活動を行った富家哲 (SATOSHI TOMIIE)、1990年にディー・ライトの一員としてアメリカで『グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート』などのヒットを記録したテイ・トウワ、作曲家、リミキサーとして活動している寺田創一らもシーンに与えた影響は大きい。


 更にレベッカのボーカル、NOKKOは90年代初期のソロ活動においてハウスを当時のメインストリーム歌手の中でいち早く取り入れ、テイ・トウワによるプロデュース『I Will Catch U』を発表するなどしていた。

・I Will Catch U 2004 NOKKO music

芝浦GOLDの出現、人気上昇、及び後を追うようにしてオープンした西麻布YELLOWなど、ハウスを中心とするクラブがオープン、また、音楽雑誌やAERAでも記事になるなど、ハウスに対する注目度が高まった。そして前述のラリーやフランキー、トニー・ハンフリーズ、ティミー・レジスフォード、デヴィッド・モラレス、ルイ・ヴェガなど、海外の著名DJも頻繁に来日するようになった。近年では、ニューヨーククラブシーンで異例のヒットとなった「Say That You Love Me」(2001年)のakや、Studio Apartment、Jazztronik、大沢伸一、田中知之 (Fantastic Plastic Machine) のように、日本人ハウスアーティストも現れるようになった。

現在

 2023年現在、イギリスを中心に、スペイン(イビサ島など)、フランス、イタリアなどヨーロッパ諸国が現在のハウスシーンの中心であるが、シカゴ、ボルチモア、ニューヨークなどのアメリカの諸都市、オーストラリアを中心にしたオセアニア、日本を中心としたアジアなどにも根強いシーンが存在している。また、イギリスのGlitterboxレーベルのアーティストたちを中心に、源流であるディスコへと回帰、ハウスとディスコが再融合した新たなシーンもあり、イギリス諸都市、イビサ島、クロアチアなどで、盛んにパーティーが開催されている。


 なお、現在の日本のハウスシーンは、テック・ハウスをメインにプレイするDJが多く、テクノや新世代のベースミュージックと親和性が高まっているが、90年代までのハウスシーンのイメージからは遠ざかり、シーンの方向性や客層、そして雰囲気自体が大きく変わってしまったとも言える。


日本においてのハウスは90年代の全盛期ほどの人気はないが、今も昔からの根強いファンやDJ、または新世代の若手オーガナイザーたちにより、小規模ながらも様々なクラブイベント、パーティーが催されている。


・・・

著名なハウス・ミュージシャン

1980年代から1990年代

C&Cミュージック・ファクトリー(英語版)[14]

インナー・シティ

ブラック・ボックス(英語版)

ムーディーマン[17]

ポール・シンプソン (ミュージシャン)(英語版)

ブレイズ

シー・シー・ペニストン(英語版)

カーネル・エイブラムス(英語版)

スナップ!(英語版)

スティーヴ・シルク・ハーレー(英語版)(a.k.a. JMシルク)

テン・シティ(英語版)

デヴィッド・モラレス(英語版)

フランソワ・ケボーキアン(英語版)

ジェイミー・プリンシパル(英語版)

フランキー・ナックルズ 

ベースメント・ジャックス

リトル・ルイ・ヴェガ(英語版)

ロリータ・ハラウェイ

マーシャル・ジェファーソン(英語版)

マス・オーダー(ザ・ベースメント・ボーイズ(英語版))

マスターズ・アット・ワーク(英語版)

セオ・パリッシュ(英語版)

2000年代以降

アヴィーチー(ティム・バークリング)

アラン・ウォーカー

カイゴ

カスケイド

ジェイ・ハードウェイ

ステファン・ポンポニャック

デヴィッド・ゲッタ

ハードウェル

マーティン・ギャリックス

マシュー・ハーバート

モービー

ラスマス・フェイバー

ハウスのサブ・ジャンル

ソウルフル・ハウス(英語版)

アシッド・ハウス

アフロ・ハウス

ユーロ・ハウス(英語版)

アンビエント・ハウス

イタロ・ハウス

エレクトロ・ハウス

ガラージュ

シカゴ・ハウス

ディープ・ハウス

テック・ハウス

トライバル・ハウス(英語版)

トロピカル・ハウス

ハード・ハウス

ハードベース

ファンキー・ハウス

フィルターハウス

フューチャー・ハウス(英語版)

フレンチ・ハウス

プログレッシブ・ハウス

マーダー・ハウス

ラテン・ハウス(英語版)

ベース・ハウス(英語版)

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C&Cミュージック・ファクトリー

ウィキペディアより

C+Cミュージックファクトリーは、1989年にデヴィッド・コールとロバート・クリヴィレスによって結成されたアメリカの音楽グループです。このグループは、「Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)」、「Here We Go (Let's Rock & Roll)」、「Things That Make You Go Hmmm...」、「Just a Touch of Love」、「Keep It Comin'」の5つのヒットシングルで最もよく知られています。バンドはコールの死後、1996年にレコーディングを中止しました。[ 1 ] 2010年、C+Cミュージックファクトリーはコールに代わってエリック・カッパーが加入し再結成しました。[ 2 ]オリジナルメンバーのフリーダム・ウィリアムズは2003年にその名前の商標権を取得し、現在もその名義でツアーを行っています。[ 3 ]


C+Cミュージックファクトリーは、ビルボードミュージックアワード5回、アメリカンミュージックアワード5回、MTVビデオミュージックアワード2回を含む、音楽業界の賞を35回受賞しています。2016年12月、ビルボード誌は彼らを史上44番目に成功したダンスアーティストにランク付けしました。[ 4 ]

2010–2011: カムバック

C+Cミュージックファクトリーは2010年に再結成され、エリック・カッパーがコールに代わり加入した。彼らは2010年初頭、ビル・コールマンのリミックスコンピレーションアルバムで、歌手スカーレット・サンタナをフィーチャーした曲「Live Your Life」をリリースした。 [ 2 ]サンタナは2011年8月にシングル「Rain」をリリースした。これはC+Cミュージックファクトリーがプロデュースした曲で、クリヴィレスとカッパーで構成され、「CnCミュージックファクトリー」としてクレジットされている。


1.◎Gonna Make You Sweat 1990 C+C MUSIC FACTORY music



2.Anything Goes! 1994 music 



3.C+C Music Factory 1995 music、YouTube不明  


"What Can I Do (To Make You Stay)" - 4:08

"Don't Stop the Music" (featuring Charlie Brown and Greg Nice) - 4:12

"I'll Always Be Around" - 4:31

"Loving You" - 4:30

"Searching" - 4:20

"Till the End of Time" - 4:56

"Still" - 5:30

"I Wanna Blow Your Mind" - 5:53

"It's So Easy to Love You" - 3:57

"Musica es mi vida" (Robi-Rob's Boriqua Anthem Part 2) - 20:23

"Latinos del mundo (Siguen Bailando)" - 11:10





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