2025年2月5日水曜日

ブライアン・イーノ

ブライアン・イーノ Brian Eno


きっかけ
ナラ・シネフロのEndlessnessをYouTubeで表示され聴く。
アンビエント・ジャズの傑作という記事をみて、
アンビエント・ミュージック(環境音楽)おという言葉を知る。
ウィキペディアでブライアン・イーノが環境音楽のアルバムを発表していたことを知る。
さらにブライアン・イーノがロキシー・ミュージックに1973年まで在籍していたことを知った。

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ウィキペディアより

ブライアン・イーノ(Brian Eno、本名:英語: Brian Peter George St. John le Baptiste de la Salle Eno[注釈 1]、1948年5月15日 - )は、イングランド出身の音楽家、自称『ノン・ミュージシャン』、音楽プロデューサー。

アンビエント・ミュージック(環境音楽)を開拓した第一人者として知られている。デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2などのアルバムのプロデューサーとしても名を馳せた。

実弟は、同じ分野で活動するロジャー・イーノ。

ロキシー・ミュージック
イーノはマッケイに誘われて、1971年1月にテクニカル・アドバイザーとしてフェリーたちに合流し、やがてテープとVCS3シンセサイザーを操作する役割を担うべくメンバーになった[9]。彼等はドラマーとギタリストを迎えてバンドの体裁を整え、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)と名乗り[9]、1972年2月14日にE. G. レコードを運営するE. G. マネージメントと契約した[10]。

→詳細は「ロキシー・ミュージック」を参照

グラム・ロックの全盛期にデビューしたロキシー・ミュージック[注釈 4]は、アルバム『ロキシー・ミュージック』(1972年)と『フォー・ユア・プレジャー』(1973年)を発表し、特異な音楽スタイルと奇抜なファッションで瞬く間に成功を収めた。中でもイーノの存在は俄然注目を集め、彼はメンバーで一番の人気者になった。ロキシー・ミュージックの主導権を握っていたのはフェリーで、彼が全ての楽曲を一人で書いていたが、女装さながらのきらびやかな衣装をまとってステージでテープとVCS3シンセサイザーを操作するイーノの存在感は、キーボードを弾きながら歌うフェリーのそれを上回った[11]。

 1973年7月8日、ロキシー・ミュージックはヨークのヨーク・ミュージアム・ガーデンズで開催されたミュージック・フェスティバルに出演した。会場では、報道陣が前年にイーノが始めたキング・クリムゾンのロバート・フリップとの共同活動(下記参照)について彼に質問を浴びせた。フェスティバルでは以前イーノが在籍していたポーツマス・シンフォニアがロキシー・ミュージックの前に出演し、当時彼等と活動していた[12]イーノも共演した。フェスティバルの聴衆の一部は明らかにイーノ目当てで、ロキシー・ミュージックのメンバーとして登場したイーノの名を連呼し続け、その余りの喧騒に彼は一旦ステージを退いた程だった[13]。

 既に自分の立場が脅かされていると感じていたフェリーは、フェスティバルの終了後にマネージメントに対して、もうイーノとは仕事しないと宣言した。数日後、イーノはマネージメントに呼び出され、自分はもはやロキシー・ミュージックのメンバーではないことを通知された[13][14][注釈 5][注釈 6]。

スタジオ活動

ソロ活動初期(1974年)
 イーノはロキシー・ミュージックに在籍していた1972年、マッチング・モウルのセカンド・アルバム『そっくりモグラの毛語録』に客演してシンセサイザーを演奏した。この時、同アルバムのプロデューサーを務めたフリップと意気投合し、同年9月にイーノの自宅のスタジオで「ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション」を録音。ロキシー・ミュージックを去った直後の1973年8月に「スワスティカ・ガール」を録音して、両曲を収録したアルバム『ノー・プッシーフッティング』(1973年)をフリップ&イーノの名義で発表した[15]。その後も同名義でインストゥルメンタルが主体のアルバムを数作発表した。

ソロ名義では『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』(1974年)、『テイキング・タイガー・マウンテン』(1974年)と独特なロックアルバムを発表した。それ以降は前衛的な現代音楽、ニューエイジ的な作風を採用するようになる。のちの『アナザー・グリーン・ワールド』(1975年)、『アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ』(1978年)に至っては、グラム・ロック的な派手さが影を潜め、前衛音楽の影響やアンビエント的な作風が強く見られる。

 ソロ活動と並行して、ロキシー・ミュージックのギタリストであるフィル・マンザネラ、旧西ドイツで活動していたクラスターのメンバーなどと作品を制作して、マニアックなサウンドが求められた当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。特に知られるところではデヴィッド・ボウイのアルバムである「ベルリン三部作」(『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』)の制作に参加したことが挙げられる。

 また、アンビエント音楽の世界では、ハロルド・バッドやジョン・ハッセル、ダニエル・ラノワなどの才能を次々と発掘して、ロックの枠組みに収まりきらない音楽業界への貢献を続けた。

 その後も同傾向の作品を発表し続けながら、1980年代のロックの新たな動きにも関心を持ち、デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2などのアルバムにも、プロデュースや演奏などで参加し、ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのコンピレーションアルバム『ノー・ニューヨーク』をプロデュースするなど、その後のアーティストやシーンに影響を与える。その他にも、視覚芸術のインスタレーション作品などにも積極的にも参画している。21世紀に入ってからも、ポール・サイモンやコールドプレイのアルバム制作に参加した。

ライヴ活動
『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』を発表した後、彼はEGマネージメントからツアーに出るように要求され、ザ・ウィンキーズ(The Winkies)をバックに1974年2月13日から国内ツアーを開始した[注釈 7]。しかし開始早々に右肺に異常をきたして病院に急行したこともあって、予定されていた20の公演の半分近くを終えた3月4日で、残りの公演をキャンセルした[16]。

1974年6月1日、ロンドンのレインボウ・シアターで、ケヴィン・エアーズ、ジョン・ケイル、ニコとコンサートを開催。この模様はライブ・アルバム『悪魔の申し子たち〜その歴史的集会より』(1974年)として発表された[17]。

1976年8月、フィル・マンザネラ(ギター)、ビル・マコーミック[注釈 8](ベース、ヴォーカル)、フランシス・モンクマン[注釈 9](フェンダー・ローズ・ピアノ、クラビネット)、サイモン・フィリップス(ドラム、リズムジェネレーター)、ロイド・ワトソン(英語版)(スライドギター、ボーカル)と、一時的なプロジェクトである801を企画した[注釈 10]。彼等は同月26日にノーフォーク、28日にレディング・フェスティバル、9月3日にロンドンのクイーン・エリザベス・ホールでコンサートを開催して高い評価を得た。9月3日のクイーン・エリザベス・ホールでのコンサートの模様は、同年11月にライヴ・アルバム『801 ライヴ』として発表された[18]。


エピソード
マイクロソフト社のオペレーティングシステム、「Windows 95」の起動音「The Microsoft Sound」は彼の作曲によるものである。「The Microsoft Sound.wav」のプロパティには彼の名が記されている。「CHRONICLE POP MUSIC CRITIC」誌の1996年のインタビューによると、マイクロソフトからの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは3秒コンマ25」であったという。当時新しいアイデアが思い浮かばずに悩んでいた彼は、これを「待ち望んでいた課題だ」と快諾し、製作にとりかかった。最終的に84個のごく短いフレーズが製作され、その中の一つが「The Microsoft Sound」として提供された。ちなみに、親友ロバート・フリップは後年、Windows OSの後継ソフトである「Windows Vista」のサウンドを担当している。

なお、BBCラジオ4の番組"The Museum of Curiosity"でイーノは、この曲はMacintoshで製作したことを明かし、「私は今までに一度もPCを使ったことがない。PCは好きじゃない」と述べた[19]。



ディスコグラフィ

アルバム
1974年
 ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ - Here Come the Warm Jets

 テイキング・タイガー・マウンテン - Taking Tiger Mountain (By Strategy)
1975年
 アナザー・グリーン・ワールド - Another Green World

 ディスクリート・ミュージック - Discreet Music
1977年 ビフォア・アンド・アフター・サイエンス - Before and After Science

1978年
ミュージック・フォー・フィルムズ - Music for Films
映画製作者やジャーナリストに配布された版を市販用に一部改訂したもの。収録漏れとなった曲は、後に「Music for Films, Vol. 2」の曲と共に「More Music for Films」に収録された。

After the Heat
アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ - Ambient 1: Music for Airports
イーノが最初にAmbient Musicとして発表したアルバム。この題名は比喩ではなく、文字通りの意味で「空港のための音楽」である。イーノは空港という場所とその機能のために音楽を作曲したのであった。この音楽は実際にニューヨークのラガーディア空港で使用されている。音楽その物はミニマル・ミュージックの手法による4曲のインストゥルメンタルからなり、各曲には題名はなく、単に番号のみがふられている。最初の「1/1」はピアノとシンセサイザー主体、2曲目の「2/1」は肉声のみで演奏されるミュジーク・コンクレートを思わせる曲であり、3曲目の「1/2」は肉声とピアノ、4曲目の「2/2」はシンセサイザーのみで演奏されている。アルバム・ジャケットには、楽曲の解説と思われる奇妙な図表による添書きが個々の音楽に併記されているが、その意味するところは解説されていない。

Ambient 1: Music For Airports music




1980年
アンビエント2/ザ・プラトウ・オブ・ミラー - Ambient 2: The Plateaux of Mirror(旧邦題は『鏡面界』)
ハロルド・バッドの作曲とピアノ演奏をイーノが編曲した共作アルバム。クレジットはHarold Budd & Brian Enoとなっている。個々に題名を持つ10曲からなる。
Ambient 3: Day of Radiance(日本盤タイトルは『発光』)
ララージ(Laraaji、本名はエドワード・ゴードン)の作曲とハンマーダルシマー(ツィンバロム)とツィター演奏をイーノが電子処理したアルバム。それゆえクレジットはララージのみとなっている。発表時、媒体はLPレコードであり、そのA面はザ・ダンスと名づけられたテンポの早い3曲からなり、裏のB面はメディテーションと名づけられたゆっくりとした2曲からなる。

1981年
My Life in the Bush of Ghosts
イーノと元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンの共作アルバム。当時はまだ一般的でなかったサンプリングを巧みに取り入れた作風で話題となった。2006年には未発表曲を収録した再発盤が発売された。なお、「Qu'ran」は現行CDと2006年再発盤には収録されていないが、一部の版のCDには収録されている。
Empty Landscapes

1982年 アンビエント4/オン・ランド - Ambient 4: On Land
再びイーノの単独クレジットとなった、シンセサイザー主体の個々に題名を持つ八曲からなるアルバム。ジョン・ハッセル(Jon Hassell)が参加していることもあって、先にジョン・ハッセルとの共作として発表された『第四世界の鼓動』(1980年)に似た雰囲気を持つ。

1983年
アポロ - Apollo: Atmospheres & Soundtracks
Music for Films, Vol. 2
TALK SHOWのため初来日をはたした。

1984年 ザ・パール - The Pearl
ハロルド・バッドと共同名義のアンビエント作品

1985年 サーズデイ・アフタヌーン - Thursday Afternoon

1988年 ミュージック・フォー・フィルムズIII - Music for Films III
ダニエル・ラノワ、ララージ、ロジャー・イーノ、マイケル・ブルック、ジョン・ポール・ジョーンズ、マイシャ・マーリン、リディア・セアミン、ハロルド・バッドとの共同によるオムニバス・アルバム。

1990年 ロング・ウェイ・アップ - Wrong Way Up
ジョン・ケイルと共同名義。イーノが『Before and After Science』以来久々に歌った事が話題となった。

1992年
ナーヴ・ネット - Nerve Net
未発表に終わった作品「My Squelchy Life」を母体にしている。
ザ・シュトフ・アッセンブリィ - The Shutov Assembly

1993年
Robert Sheckley's In a Land of Clear Colours
ネロリ - Neroli

1994年 Headcandy
Mac専用CD-ROM。付属の眼鏡で立体映像を体験するソフトウェア。イーノは映像制作には関与していない。音楽のみの貢献。

1995年 Spinner
元PILのジャー・ウーブルと共同名義
1997年
ザ・ドロップ - The Drop
旧国内盤にはボーナストラックを3曲収録した8cmシングルCDがあった。
Extracts From Music for White Cube
1998年 Lightness: Music for the Marble Palace
1999年
I Dormienti
Kite Stories
2000年
Music for Civic Recovery Center
Music for Onmyo-Ji(陰陽師)
2001年 ドローン・フロム・ライフ - Drawn From Life
J・ペイター・シュヴァルムと共同名義
2003年
Bell Studies for the Clock of the Long Now
January 07003: Bell Studies for the Clock of the Long Now
2005年 アナザー・デイ・オン・アース - Another Day on Earth
日本盤はボーナストラックを1曲収録。
2006年
77 Million Paintings
DVD-ROM。写真や絵がランダムに映り融合する。融合のパターンは理論的には7700万通り存在する。また、音も同様にランダムに組み合わされる。2006年にラフォーレミュージアム原宿にてこれを使用したインスタレーション展が開催された。2007年には改訂第2版が発売された。
77 Million
上述のインスタレーション展会場にて1000枚限定で販売されたCD。未発表曲集。
2008年 エヴリシング・ザット・ハプンズ・ウィル・ハプン・トゥデイ - Everything That Happens Will Happen Today
デヴィッド・バーンと共同名義
2010年 スモール・クラフト・オン・ア・ミルク・シー - Small Craft On A Milk Sea
2011年
ドラムス・ビトウィーン・ザ・ベルズ - Drums Between the Bells
パニック・オブ・ルッキング - Panic of Looking
2012年 ラックス - LUX
2014年
サムデイ・ワールド - Someday World
カール・ハイド(アンダーワールド)と共同名義
ハイ・ライフ - High Life
同上
2016年 ザ・シップ - The Ship
2017年 リフレクション - Reflection
2020年 ミキシング・カラーズ - Mixing Colours
ロジャー・イーノとの共同名義[21]。
2022年 フォーエヴァーアンドエヴァーノーモア - foreverandevernomore
フリップ&イーノ
1973年 ノー・プッシーフッティング - No Pussyfooting
1975年 イヴニング・スター - Evening Star
1994年 エッセンシャル・フリップ&イーノ - The Essential Fripp and Eno
2004年 イクエイトリアル・スター - The Equatorial Stars
2008年 Beyond Even (1992–2006)


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ロキシー・ミュージック
 ブライアン・イーノが在籍中のアルバム

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