2025年2月7日金曜日

ジェームズ・ブラウン

 ジェームズ・ブラウン



James Brown - Mr Dynamite: The Rise Of James Brown 

ミスター・ダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン 2016

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「ファンクの帝王」として音楽界に君臨し、アーティストだけでなく、ビジネスマン、黒人の権利を求める活動家としても活躍したジェームス・ブラウンの足跡を綴ったドキュメンタリー。本作では彼の権利を管理する「ジェームス・ブラウン・エステート」の全面協力により、これまで未公開だった映像や写真が多数登場。さらにメイシオ・パーカーらバンドメンバーなどの関係者や、「パブリック・エナミー」のチャックDらジェームスに影響を受けたアーティストたちのインタビューなどからジェームス・ブラウンの人物像に肉薄していく。伝記映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男」に引き続き、ミック・ジャガーが製作を担当。監督は「ヤバい経済学」「ゴーイング・クリア サイエントロジーと信仰という監禁」など、社会派ドキュメンタリーを数多く手がけるアレックス・ギブニー。

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ウィキペディアより


ジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウル歌手、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、レコード・レーベル・オーナー、社会事業家。ファンク、ブルース、ゴスペル音楽、R&B、ソウルなどの音楽性を持ち、アフリカ系アメリカ人で長きにわたり一般的な人気を博した。上記の通り、1933年生まれとあるが実際には1928年生まれの説もある。


「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニックネームを持っていた。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドを確立したことで知られる。


父はアメリカ先住民のアパッチ族で、母はアフリカ系アメリカ人とアジア人の系統である。


「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位。

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1950年代(ミスター・ダイナマイト)

ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコード[注 1]と契約を結ぶ。


 シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェームズ ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。


 これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、ルイ・ジョーダン、エイモス・ミルバーン、ワイノニー・ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展し、Pファンク、 スライ・ストーン、プリンスなどに強い影響を与えた。


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1960年代(ファンク革命)

 ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。

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ライブ・アルバムが成功した後、ブラウンは最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト・Out of Sight」を発表した 。

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さらに「 Night Train」を制作した。


これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。1967年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。


1960年代の主要メンバー

クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス

ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス

ティム・ドラモンド - ベース

バーナード・オーダム - ベース

メイシオ・パーカー - サックス

メルヴィン・パーカー - ドラムス

セントクレア・ピンクニー - サックス

ジミー・ノーレン - ギター

ナット・ケンドリック - ドラムス

ボビー・バード - ボーカル

イボンヌ・フェア - ボーカル

アナ・キング - ボーカル


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1970年代(ファンキー・プレジデント)

1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「セックス・マシーン」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ[注 4]」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。1970年3月には、ジェームズ・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。


1970-71年ごろの主要メンバー

クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス

ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス

ロバート・マッカロウ[注 5] - テナーサックス

フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン

セントクレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナーサックス

フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ(Phelps 'Catfish' Collins) - ギター

ハーロン・チーズ・マーティン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター

ウィリアム・コリンズ(William 'Bootsy' Collins) - ベース

ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション

ヴィッキー・アンダーソン(マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson) - ボーカル

ダニー・レイ(Danny Ray) - MC

フレッド・ウェズリーが1975年に脱退するまでの4〜5年間は、ポリドール時代のブラウンの充実期である。1972年から1974年までの主要メンバーは次の通り。


1972-74年ごろの主要メンバー

フレッド・トーマス(Fred Thomas) - ベース

フレッド・ウェズリーFred Wesley - トロンボーン/音楽監督

ジョン(ジャボ)・スタークス(John 'Jabo' Starks) - ドラマー

メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年ごろ再加入

セント・クレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナー・サックス

スウィート・チャールズ・シェレル - ベースおよびキーボード

ジミー・ノーラン(Jimmy Nolen) - ギター ※1972年ごろ再加入

ハーロン・チーズ・マーチン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター

ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション

マーサ・ハイ(Martha 'High' Harvin) - バックボーカル

ダニー・レイ(Danny Ray) - MC

ボビー・バード(Bobby Byrd) - ボーカル、オルガン

リン・コリンズ(Lyn Collins) - ボーカル

1972年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。1973年・1974年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリ[注 6]と王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『ソウル・パワー』で観ることができる。この時期、JBファンクの影響を受けたクール&ギャング、BTエクスプレス、オハイオ・プレイヤーズらファンクの新興勢力が登場し、ブラウンはやや押され気味になった。


その後、1975年ごろから起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ・サウンドの中のファンキーな部分のオリジナルであるにもかかわらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。1976年の『Get Up Offa That Thing』や1977年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、1970年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎えた。しかし1979年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。


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1980年代(アイム・バック)

 1980年、映画『ブルース・ブラザース』に出演。1984年、ヒップホップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を浴びた。1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画「ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして1986年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに1988年には、フルフォースのプロデュースによる傑作「アイム・リアル」を発表した。ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパー、DJたちによって非常に多くサンプリングされた。


 しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され実刑判決を受けた。


1990年代

 1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの "Star Time" を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。1991年6月10日には「ジェームズ・ブラウン リヴィング・イン・アメリカ ライブ」が開催された。出演者はアイスT、トーン・ロック、クール・モー・ディー、ヘビーD、アン・ヴォーグ、MCハマー、C&Cミュージック・ファクトリー、ベル・ビブ・デヴォー、クインシー・ジョーンズらだった。


 1992年2月25日、ブラウンは第34回グラミー賞特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、1993年11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェームズ・ブラウン大通り James Brown Boulevard」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュージック・ファクトリーと, ソウルIIソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム「ユニバーサル・ジェームズ」も発表された。


2000年代


2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードに招かれる。ここではマイケル・ジャクソンが飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの音楽とダンスの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。同年にはケネディセンター賞も受賞した。2004年の曲「ガット・バケット」は、モージョー・マガジンのコンピレーションCDに収録された。


2004年12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受けた。


2005年5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日にはLIVE 8のEdinburgh 50,000 - The Final Pushに出演し、イギリスの歌手ウィル・ヤングと「Papa's Got A Brand New Bag」をデュエットした。また、その1週間前にはジョス・ストーンと「Friday Night with Jonathan Ross」に出演し、デュエットを行っている。


2006年、ブラウンは世界ツアー「Seven Decades Of Funk World Tour」を行った。ショーは、聴衆から肯定的に受け入れられた。最後のショーは、オキシジェン・フェスティヴァルへの出演であった。8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局(Augusta/Richmond County Coliseum Authority)は、オーガスタ・リッチモンド郡市民ホール(Augusta-Richmond County Civic Center)をジェームズ・ブラウン・アリーナと改名することを票決した[注 7]。11月14日には、イギリス音楽の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。


死去


 ブラウンは2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去はCNNやBBCなど世界の多くのメディアでトップニュースとして報じられた。


 この時、ブラウンの医者として働いていたのはコンラッド・マーレーであった。ブラウンは死の時点でツアー予定を残しており、最後まで"The Hardest Working Man in Show Business"であった。


 12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバーの参列はボビー・バードなど少数だったことは残念だった。他にもいくつかの都市で追悼イベントが開かれ、ドクター・ドレーやLLクールJら多くの有名人が参列した。


 ブラウンは、4度の結婚を経験した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。


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主なアルバム

Please Please Please (1959)

Try me (1959)

Live at the Apollo (1963)

Cold Sweat (1967)

Super Bad (1970)

Sex Machine (1970)

Get on the Good Foot (1972)

The Payback (1973)

Hell (1974)

Hot (1975)

In the Jungle Groove (1986)

Gravity (1986)

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参考

・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(1)―59年~65年までの作品をまとめて紹介 サイト

1959 Please Please Please 

 JAMES BROWN AND HIS FAMOUS FLAMES

1959 Try Me!

 JAMES BROWN AND HIS FAMOUS FLAMES


1960 Think! 

 JAMES BROWN AND HIS FAMOUS FLAMES


1961 The Amazing James Brown 

 JAMES BROWN AND HIS FAMOUS FLAMES


1962 Tour The U.S.A. 

 JAMES BROWN AND HIS FAMOUS FLAMES


1963 Prisoner Of Love 

 JAMES BROWN 


1963 Live At The Apollo

 JAMES BROWN 


1964 Pure Dynamite! Live At The Royal

 JAMES BROWN 


1965 Papa's Got A Brand New Bag

 JAMES BROWN 


1966 I Got You (I Feel Good) 

 JAMES BROWN 


・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(2)―66年~69年までの作品をまとめて紹介 サイト


1966 Live At The Garden

 JAMES BROWN 


1966 It's A Man's Man's Man's World

 JAMES BROWN 


1967 Raw Soul

 JAMES BROWN 


1967 Cold Sweat

 JAMES BROWN 


1968 I Can't Stand Myself When You Touch Me

 JAMES BROWN 


1968 I Got The Feelin'

 JAMES BROWN 


1968 Live At The Apollo Volume II 

 JAMES BROWN 


1969 Say It Loud -I'm Black And I'm Proud

 JAMES BROWN 


1969 The Popcorn 

 JAMES BROWN


1969 It's A Mother 

 JAMES BROWN






・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(3)―70年~72年までの作品をまとめて紹介 サイト


1970 Ain't It Funky 


1970 It's A New Day -Let A Man Come In


1988 Motherlode


1986 In The Jungle Groove


1970 Sex Machine 


1971 Super Bad 


1992 Love, Power, Peace: Live At The Olympia, Paris 1971



1971 Hot Pants 


1971 Revolution Of The Mind 


1972 There It Is 





・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(4)―73年~2002年までの作品をまとめて紹介 サイト

1973 Black Caesar 



1973 Slaughter's Big Rip-Off



1973 The Payback 



1974 Hell 


1976 Get Up Offa That Thing


1976 Bodyheat 


1980 Live: Hot On The One


1985 Gravity 

 ※映画「ロッキー4」で使われたLiving In America


1988 I'm Real 


2002 The Next Step 

 70歳を目前にしてリリ−スされた、生前最後のオリジナル・アルバム。最後の妻になったトミー・レイら晩年のチームが周囲を固めるなか、3曲を共作もした盟友ボビー・バードとは“Killing Is Out, School Is In”にて22年ぶりに共演を果たした。


・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(5)―リイシュー作を中心にJBファミリーの作品を紹介(前編) サイト


1970 I Need Help

 BOBBY BYRD


1989 Hot Pants -I'm Coming, Coming, I'm Coming

 BOBBY BYRD,VICKI ANDERSON


1995 Bobby Byrd Got Soul: The Best Of Bobby Byrd

 BOBBY BYRD


1972 Food For Thought

 THE J.B.'s


1973 Doing It To Death

 THE J.B.'s

映画では不満分子っぽく描写されていたサックス/フルート奏者のメイシオ・パーカーが復帰し、フレッドと共にイキイキ躍動してみせたセカンド・アルバム。執拗にクールな表題曲はR&Bチャート1位を記録している。


1974 Damn Right I Am Somebody 

 FRED WESLEY & THE J.B.'s


1974 Us

 MACEO


1974 Breakin' Bread 

 FRED & THE NEW J.B.'s


1975 Hustle With Speed
 THE J.B.'s


1978 Jam II Disco Fever 
 J.B.'s INTERNATIONALS




・アルバムで楽しむジェイムズ・ブラウンのステップ(6)―リイシュー作を中心にJBファミリーの作品を紹介(後編) サイト


1975 The Bitch Is Black 

 YVONNE FAIR イヴォンヌ


2010 Come On And See Me: The Complete Solo Collection

 TAMMI TERRELL タミー・モンゴメリー


1964 Back To Soul

 ANNA KING


1969 It's My Thing 

 MARVA WHITNEY


2004 Mother Popcorn: Vicki Anderson Anthology

 VICKI ANDERSON


1972 Think (About It)

 LYN COLLINS



1975 Check Me Out If You Don't Know Me By Now

 LYN COLLINS


1979 Martha High

 MARTHA HIGH


1968 You Can't Keep A Good Man Down

 HANK BALLARD


1974 For Sweet People From Sweet Charles

 SWEET CHARLES

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ジェームス・ブラウンのベストソング20:ファンク/ソウル界に燦然と輝く名曲選

サイト 

彼が発表したスタジオ・アルバム、ライヴ・アルバム、コンピレーション・アルバムは数十作に上り、それ以外にも彼は、レイ・コリンズやJ.B.s、ヴィッキー・アンダーソン、ボビー・バードなど関わりの深いアーティストたちのヒット曲を数多くプロデュースしている。そのため、膨大なジェームス・ブラウンの作品群をすべて網羅したリストはどこにも存在しない。そこで、ここでは彼の驚くべきキャリアへの入門編として、20の代表曲を紹介することにしよう。


バラード・ナンバー

1. Try Me 


2. Please, Please, Please 


3. Bewildered 


4. I Love You, Yes I Do


ファンクの原点

5. I Got You (I Feel Good) 

6. Papa’s Got A Brand New Bag 

7. I Got The Feelin’


8. Cold Sweat


9. Superbad Pt. 1&2 

10. Ain’t It Funky Now 

11. Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine 

12. Get Up Offa That Thang


メッセージ性の強い楽曲

13. Say It Loud – I’m Black And I’m Proud 

14. It’s a Man’s Man’s World


15. The Payback


ヒップホップのDNA

16. Give It Up Or Turn It Loose 

17. Blues And Pants 

18. Mind Power 

19. Papa Don’t Take No Mess 


「Give It Up Or Turn It Loose」「Blues And Pants」「Mind Power」「Papa Don’t Take No Mess」など魅惑的なグルーヴが延々と繰り返される楽曲群は、どれもサンプリングの素材としての人気が高い。


20. Funky Drummer

ブラウンの楽曲の中でもっともサンプリングされているのは、おそらく「Funky Drummer」だろう。何千とはいかなくとも何百もの楽曲に使用されている「Funky Drummer」は、現在に至るまで、音楽シーンの未来を形作ってきた1曲なのである。

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☆【徹底解説】これ一本で大体わかるファンクの基礎知識!【James Brown】

 YouTube ファンクといえばThe One

・Bootsy Collins ブーツィー・コリンズ music  

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